2007年 01月 15日
命とは何か、なぜ尊いのか?
さすがに寒い。
しかし、昼間は暖かくなり、
初春の雰囲気を感じられるような陽差しである。
御正忌報恩講も今日が最終日。
3日間御門徒の方々にお話をさせていただく。
この3日間、「内なる時間の流れ」を私自身の中で整理
したくなり、そのことを中心にしていく。
誕生から今日まで生きてきている。そこでは、
時間は過去、現在、未来と流れていく。
現在は、過去になり、未来は、現在になり、過去になる。
それは間違いないことである。つまり時間は過ぎていくものである。
私たちの内なるなる時間はこのような流れとなるのだろうか?
私の意識あるいは思いは、その川の流れのように過ぎ去っていくのか。
子ども達の命の尊さについてずいぶん話をしてきた。
かけがえのない命である、と。
竹熊養生園の竹熊先生は、命を大豆の種等を通してお話しされた。
私も、同じように「いのち」を種子をつかう。
ただし、大豆ではなく「蓮の実」である。
泥沼に咲く色とりどりの蓮華に如来をしのんできたのが仏教徒である。
「維摩経」には「例えば高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の汚泥にいまし
この華を生ず」といわれているきれいに乾燥した高原の陸地には蓮華は咲かないように、悩みのない人の心には、真理の花は咲かないという。泥の中に深く根を下ろし、泥を養分にして咲く蓮華は、まるで泥が華となった香っていくかのような美しさがある。
命の尊さを蓮華の実との出会いにおいて考えることができるように思う。
大賀蓮は、2000年前の地中から発見されそして大賀博士によって
命を吹き込まれた。
私たちの命もまた、父や母そしてそのまた父母による縁なくして私は生ずることはなかった。そしてまた、生を受け、生老病死のなかにおいてこそ蓮華の花のごとく
私の命を花開かせることができるのであろう。それもまた縁によって。
ここまで自分の中で整理できてやっと演台にたつことができた。
ただ、御門徒にそれを伝えることができることができたかは、自信がない。
ずいぶん居眠りをされていた御門徒の方もおられたから。
子ども達に話をするより、難しい。
もっと勉強する必要がある。
チマリはビーグルの雌である。
食べるの大好きだから、腰のくびれがない?
つい、チュンやユーリと同じくらいご飯をあげているためであろう。
暖かいとチマリも眠いのである。