変成男子の願をたて・・・

曇天。どんよりした空模様である。
緑川に映る木々も何となく所在なげ。
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ここ数ヶ月、お葬式が続く。
昨日も御門徒の方の二つのお葬式。
14時からと15時から別々の斎場で行われた。
過疎の町であり、高齢者の割合が大きい。
どちらもご高齢の方である。
「いのち」の意味を問われるのが葬儀である。
生きている私が、今を問われている。
寺の本堂の内陣には、聖徳太子が掲げてある。
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「世間虚仮、唯佛是眞」
とは太子の言葉である。
また、十七条の憲法をすぐに思い起こす。
出てくるのは、「和をもって尊しとなす」である。
例えば、
第十条、  忿りを絶ち、瞋りを棄て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。
心おのおの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。
われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。
かれ必ずしも愚かあらず。ともにこれ凡夫のみ。

がある。
我々の価値判断への警鐘と読み取れなくもない。

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中学生の頃父と一緒にお葬式に出ていた。
父の後ろに畏まりお経をあげる。
その当時、不思議に思っていたことがある。
女性と男性では、お勤めが一部が異なるのである。
(今は一緒である)
それは、
「弥陀の大悲ふかければ 佛智のふしぎをあらはして
    変成男子の願をたて 女人成佛ちかひたり」

が女性の場合である。
男性の場合は、
「本願力にあひむれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」

となる。女性は、男性に変わり佛になる、というのである。
女性にたいする偏見である、と気づいたのは大学時代。

この和讃は、讃大無量寿経和讃であり、もとになる大無量寿経
を読むと
「たとひわれ佛を得たらんに、十方無量不可思議の諸佛世界に、それ女人ありて、
わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終りてののちに
また女像とならば、正覚をとらじ」

と記している。

この文意は「女性は、女性のままでは佛になることが出来ないので、いのち終わるときに
男性になって佛になる」であろう。
今の私たちからすると明らかにおかしい。差別的でさえある。

ただ、この仏典の出来た当時を考えれば見方が変わってくる。
女性がどんな状況にあったかである。

私の判断基準は、今という時代の中に生きている価値基準である。
私が正しいと判断するのが、現在という時間と日本という環境の中での規準である。
更に、今、ここに生きている限定されたものであるし、私が生きてきた時間の中で蓄積した知識を持っての判断基準である。
時代を超え得る規準をもつというのは至難の業なのであろう。
そう考えるなら、判断を下す私自身の姿はどうなのか、と謙虚に顧みる必要がありそうである。

変成男子の願は当時としては画期的な教えだったのかもしれない。
そして、仏教が2000年の時を超えて現在にまでつながっているのは、
時間、場所、人を超える願いがあるからであろう。

因みに、女人成仏の願は 第18願、「たとひわれ佛を得たらんに、十方の衆生至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずば、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」に全て摂め取られていると。
by shin0710s | 2007-01-21 16:09 | 真宗 | Trackback

ダックス4匹の愛犬と猫1匹の動物たち。周囲約7kmの世界で見聞したことを日記風に書いています。


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