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白秋の黄昏

カテゴリ:遺跡( 80 )

南三箇の六地蔵から。

南三箇の六地蔵は享保17年(1732)に建立されている。碑文によると
建立者は部落有志となっている。


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今回の地震により倒れていたが、部落の方々の手によって元の姿を取り戻している。
碑文、地蔵像等損傷、欠損も少なく大事にされてきている。



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享保17年は、江戸時代の三大飢饉の年である。
以下のような大飢饉の年に建てられている。
この六地蔵へ込められた願いがいかばかりのことであったかと思う。

1731年(享保16年)末より天候が悪く、年が明けても悪天候が続いた。
1732年(享保17年)夏、冷夏と害虫により中国・四国・九州地方の西日本各地、中でもとりわけ瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われた。梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及び冷夏をもたらした。このためウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらして蝗害として記録された。
被害は西日本諸藩のうち46藩にも及んだ。46藩の総石高は236万石であるが、この年の収穫は僅か27%弱の63万石程度であった。餓死者12,000人(各藩があえて幕府に少なく報告した説あり)にも達した(『徳川実紀』によれば餓死者969,900人)。また、250万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われる。また、1733年(享保18年)正月に飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって享保の打ちこわしが行われた


春から翌年の春にかけて大飢饉。餓死者山のごとし糸田村も60人餓死。
大洪水、院の馬場より横田と新橋までの塘筋破損。諸方田方腐れ、収穫皆無。
秋、蝗が大量に発生し、稲の被害甚大。気が出が死者多数、翌年の春の樅種もなく
藩より種子籾が渡される。 (新甲佐町史)



by shin0710s | 2017-10-21 17:27 | 遺跡 | Trackback

宝暦のお地蔵様

甲佐神社の横から山沿いに登っていくと
御手洗神社が見えてくる。


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今は工事中である御手洗石橋を渡り少し先から左手に山道を登っていくと
安平の共同墓地に出る。



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新しくできた共同墓地に古いお地蔵さまがある。
宝暦五年五月六日と彫り込んである。



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以前の村の墓地にあったものをここに移築したものである。
西暦1755年に当たる。
ここから御手洗神社を見ると古墳のような姿となっている。



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by shin0710s | 2017-09-29 19:25 | 遺跡 | Trackback

都紀女加(つきめか、都紀女加王)の墓へ。

吉野ヶ里町へ行く機会があったので都紀女加王の墓に出かける。


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佐賀県三養基郡上峰町大字坊所七本谷にあり, 遺跡名:上のびゅう塚古墳という。


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古墳は前方後円墳で、前方部を西に向ける。墳丘長は49メートルで5世紀の築造と推定されるが、埋葬施設は明らかでない。墳丘表面からは埴輪・葺石が見つかっているほか、墳丘周囲に周溝が巡らされたことが明らかとなっている。昭和18年(1943年)に宮内省(現・宮内庁)によって都紀女加王の墓に治定された。



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by shin0710s | 2017-09-23 20:47 | 遺跡 | Trackback

晩免古墳へ。

宇城市にある晩免古墳へ出かける。
3号線バイパスから少し入ったところに晩免古墳はある。
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この古墳については、旧清和村の安徳天皇陵に行ったときに
もう一つの安徳天皇陵があることがわかり行ってみたいと思っていた。


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この晩免古墳の天皇陵については以下のブログに詳しく述べてある。

安徳天皇陵。安徳天皇は高倉天皇の第一皇子で母は平清盛の娘・建礼門院徳子。安徳天皇は平清盛の強引な後押しにより、生誕一ヶ月で皇太子に立てられ、翌々年にはわずか三歳で父・高倉天皇からの譲位により即位した。しかしながら、翌年清盛が死ぬと各地で平家追討の動きが出て、寿永2(1183)年7月の木曽義仲の入京に伴う、平家一門の都落ちに際しては三種の神器と共に奉じられ西国に脱出した。すると後白河上皇は後鳥羽天皇を即位させ、天皇が二人立つという異常事態となった。以後、安徳天皇は平家一門と共に西国を転々としたが、文治元(1185)年、源平合戦の最終決戦となった壇ノ浦の合戦で敗れた平家一門と運命を共にし、海中に没して亡くなったとされている。
しかしながら、『醍醐雑事記』に「先帝行方不明」とあり、『玉葉』でも「旧主御事、分明せず」とされていることなどから、実は安徳天皇は壇ノ浦から密かに脱出して生き延びたという伝説・伝承が西日本には平家落人伝説とともに各地に残されていて、全国には安徳天皇陵とされるものが十数ヶ所あると言われている。
この立岡に伝わる伝承によると、宇土を治めていた古保里越前守を頼って平家の残党が隠れ住み、安徳天皇の御霊を晩免の地に祀った、あるいは熊本県清和村(現山都町)に葬られた安徳天皇の墓をこの地に移したといわれている。


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この古墳は立岡古墳群の一つとして独立丘陵上に位置しており、直径30~35mの円墳である可能性が高いと考えられている。尚、明治16年にこの晩免古墳の近くに
ある潤野古墳の石棺が露出し、石蓋の裏に「吾人平資盛」との彫刻が見付かり、引き続き明治19年に行われた晩免古墳の調査で石棺の身の内面に菊花文があることが確認されたことなどから、地元に伝わる安徳天皇伝説を受け、宮内省(現宮内庁)より御陵墓伝説地(現陵墓参考地)に指定された。
ただし、潤野古墳の「吾人平資盛」の彫刻は書体から後世の偽刻である可能性が高いとされ、晩免古墳についても五世紀後半頃の築造であると考えられているという。
http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage1032.html

by shin0710s | 2017-09-10 19:58 | 遺跡 | Trackback

文化財を守る

世持から乙女台地に沿って緑川の支流である錦郷川が熊本市城南町に流れている。
中山部落の西方から錦郷川下流に沿って横穴古墳群が数多く点在している。



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 横穴古墳は、古墳時代の後半から奈良時代(約1500年~1300年前)頃に見られた
墓の一つで崖に横穴を掘って作ってある。
内部はドーム状になっており、コの字形に区画した遺体安置所(屍体)がある。
墓内にはふつう2~3個の屍床が設けられている。
 古墳時代を代表する遺跡といえば塚原古墳群であるが、
この塚原古墳群の築造が終焉を迎える6世紀末に本町の横穴群へと墓制が変化していったと考えられる。
 中山古墳群は、5~6世紀のもので山裾に現在十数基点在し、内部は三床の祭壇式になっていまる。
もともと入口は閉塞石(ヘイソクセキ)とよばれる石でふさがれていたのだが今はその石はない。
 この麻生原から中山にかけての錦郷川に沿っての低地は、
古墳時代後期から終末期には生産力が高く多くの人が住んでいたと思われる。

 本町にはここ中山古墳群、そして船津東前古墳群、



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下豊内横穴古墳群がある。 緑川を挟む山々に残る横穴群や古墳をはじめ数多くの遺跡を守り、
後世に残していくことは我々の務めであろう。

by shin0710s | 2017-09-08 19:45 | 遺跡 | Trackback

中山横穴古墳群へ

世持から乙女大地に沿って緑川の支流である錦郷川が熊本市城南町に流れている。
中山部落の西方に錦郷川に沿って古墳群が点在している。


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横穴古墳は、古墳時代の後半からなら時代(約1500年~1300年前)頃に見られた墓の一つで
崖に横穴を掘って作ってある。
内部はドーム場になっておりコの字形に区画した遺体安置所(屍体)がある。
中山古墳群は、船津横穴古墳群と同じく5~6世紀のもので山裾に十数基点在し、
内部は三床の祭壇式になっている。

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もともと入口は閉塞石(ヘイソクセキ)とやばれる石でふさがれているが今はその石はない。



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本町にはここ中山古墳群、そして船津東前古墳群 下豊内横穴古墳群がある。

by shin0710s | 2017-08-29 20:30 | 遺跡 | Trackback

小川島の六地蔵

せっかく寒野に来たので小川島の六地蔵に向かう。
資料では知っていたが実際に見るのは初めてである。


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今まで4体の六地蔵を見てきたが、この小川島の六地蔵も
船津の六地蔵と同じようにずいぶん摩耗しており地蔵菩薩の輪郭もわかりにくい。



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何時の頃に立てられたのかもよくわからない。
元あった場所から耕地整理で今の場所になっているらしい。
甲佐町の六地蔵は、1700年代に建立されている。
この六地蔵もその頃であろうか。


眞(マーサ)のトレッキング記録。
(2008.6.8)
大矢岳へ。コウメと一緒に。

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by shin0710s | 2017-08-04 20:24 | 遺跡 | Trackback

寒野へ出かける。

東寒野に用件があり、久しぶりに緑川を反対側から眺める。
鵜の瀬堰が見える。

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アオサギが飛び立っている。


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鵜の瀬の由来については、
慶長13年(1608)に完成した、清正公の緑川治水工事の一つ。
堰の位置を、夢のお告げで鵜が教えたということから、この名が付いたと言われている。

道路の反対側には小さな祠がある。
お地蔵様が祭ってある。一体は確かにお地蔵様。もう一体は?
観音像のようでもあるが。

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マーサがいないと寂しいもの。
もう一度山に連れて行きたかったな。


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by shin0710s | 2017-08-03 19:46 | 遺跡 | Trackback

隣町の気にかかるもの

隣町に行くたびに気にかかるものがあった。
御船橋を渡るとき目に飛び込んでくる。


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屋根の上に何か置いてある?
何?
何のために?
自家用車からの眺めなのでゆっくり見ることができない。
そこで今日は確かめに。

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恐竜のようである。
でも何のために?案内板はあるのかな。

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御船町は恐竜の里なのでそのアピールかもしれない。
建物は民家ではなかったようだけど。


by shin0710s | 2017-07-27 19:33 | 遺跡 | Trackback

阿蘇草部吉見神社の日子八井命御陵

阿蘇は田植えの真っ最中。
田植えの終わった先にこんもりとした杜がある。草部吉見神社から300m程離れている。



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標高600m余り。
冬場は厳しい寒さだけど、これからの季節本当に気持ちのいい
所である。
銛の入り口に石碑がある。


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日子八井命御陵と記してある
陵墓参考地とは、伝承や出土品などにより一旦は宮内庁によって皇族の墳墓とされた上、
誰が埋葬されているかを特定できないもののことらしい。


日子八井命(ヒコヤイ)は、彦八井耳命・彦八井命・武国竜命・高知保神とも書かれますが、
「古事記」では、初代神武天皇の皇子で母は大物主神の女・伊須気余理比売命とし、
「日本書紀」の神八井耳命=神沼河耳命は同母弟とされます。

しかし、「日本書紀」
には日子八井命の名は無く、「新撰姓氏録」「阿蘇氏系図」
では神八井耳命の子となっています。

どうも、「日本書紀」は日子八井命=草部吉見神にふれたくないようですが、

草部吉見神社のミササギが現地では日子八井命のものとしていることは間違いがないことから

今のところは草壁吉見神社の主神は「日本書紀」で消され「古事記」で神武の子とするものと考えています。

     http://ameblo.jp/hiborogi-blog/


墓所とされる場所には3つの禁忌がある。

馬に乗ること▽汚物を焼くこと▽婚姻で他の村へ出る女人や、死人を通すこと-である。

http://www.sankei.com/west/news/160924/wst1609240002-n2.html

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陵墓の横に甲斐有雄の道しるべがある。地震で頭部が崩れたのだろうか。


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陵の周りには石碑がある。
2つの碑にも文字らしいものがあるが判読しがたい。


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この碑は、猿田彦さん。
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by shin0710s | 2017-05-19 11:54 | 遺跡 | Trackback

ビーグル1匹、ダックス5匹の愛犬と猫2匹の動物たち。周囲約7kmの世界で見聞したことを日記風に書いています。