カテゴリ:ことば( 85 )

生死の中雪ふりしきる

寒い一日であった。
雪がときおり舞っていた。九州山脈は雪雲に覆われている。
三十年以来の畏友と思いついたようにメールのやりとりをしている。
心許せる友なので忌憚のないことばのやりとりもある。
お互いに数え年なら今年は古稀の年。
十分すぎるほど生きてきた。
それぞれに与えられた仕事を全うしてきた。
そしていま、ふっと我が身を振り返ると老いたる我が姿がある。
十分満足しているはずなのに「独りぼっち」の我が身である。

生老病死の姿は、独りぼっちの私であることを教えるものであろう。若い頃は気づかなかった。
仕事あるいは家族との生活の中で多くのことばが行き交い心穏やかに過ごすこともままならない日々であった。
それが仕事を終えた今、子どもたちは巣立つ中で間違いなく一人になって行くことが遠い将来ではない。

西行、兼好、長明あるいは山頭火、放哉の独り生きるすがすがしさあるいは強さが感じられる。
「独り法師」の目覚めがあったのであろうか。

「人在世間・愛欲之中・独生独死・独去独来・當行至趣・苦楽之地・身自當之・無有代者」
(人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し、独り去り独り来りて、
行に当たり苦楽の地に趣く。身自らこれをうけ代わる者あることなし)
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生死の中雪ふりしきる

紀野一義は、この句を引きつつ

さびしい観音堂の中で山頭火はなにを考えていたろうか。それは、生と死とを無限に繰り返す輪廻転生世界のこと、悩みや苦しみに満ちた凡夫の人生のことである。‥生死の世界の中に雪が降りしきるのではない。雪もまた、「生死の中の雪」である。生死の迷いを清める雪ではなくて、いよいよ深く降り積もる迷いの雪である、と。


by shin0710s | 2017-02-10 17:48 | ことば | Trackback

ただいま青春?

昨年の十月から始めたお絵かきデッサンも3ヶ月あまり。
今は、リンゴ等の静物デッサンから、ワン公のお絵かきに夢中になっている。
古いデーターの写真を引っ張り出しそれを鉛筆で模写している。
まさかこんなにおもしろく楽しい時間を過ごすことができるとは思わなかった。
古希を迎えた私がこのように夢中になる時間に出会えることは驚きである。
夢中になる時間を持つことは青春時代の特権?

ただ、若い頃のことを振り返ると、
いろんな事にチャレンジしていた。
茶道、ギター、書道等がある。
しかし途中で放棄。
物にならなかった。続いていることと言えば、バドミントン。
30年近く続いている。
しかし体力的にもう無理かな。
このお絵かきデッサンが続いたらいいのだが。
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ドイツ出身のアメリカの詩人サミュエル・ウルマン(1840年~1924年)の詩に、
【青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方を言う】
がある。


 青 春     サムエル・ウルマン

青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。

優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,

こう言う様相を青春と言うのだ。

年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。

歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。

苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、

精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。

曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、

事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味

人は信念と共に若く
人は自信と共に若く
希望ある限り若く 
   疑惑と共に老ゆる
恐怖と共に老ゆる
失望と共に老い朽ちる

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を受ける限り人の若さは失われない。

これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば

この時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。



by shin0710s | 2017-01-24 20:43 | ことば | Trackback

布施柿

2階からは、脊山の先の甲佐岳がかろうじて見える。
暦の上では初冬であるが、未だ晩秋の趣がある。
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境内の柿の実が残り少なくなった。
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今年は、40個ほど干し柿を作ることにした。
慣れない手つきで、皮をむき外に干したら、その夜雨に遭ってしまう。
慌てて家に入れたけれど、外に干し忘れた2個以外は全部ぬれてしまう。
次の日見たら、青カビ発生。
焼酎で吹けば取れるというのでやってみる。
取れたような取れないような…

さて、境内の柿の実は?
小鳥たちの食物である。
カラスやヒヨドリ?雀?午前中は入れ替わり立ち替わりして
柿の実を啄んでいる。
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カラスがくると一斉に逃げ出す。
カラスはここでは王様。
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こうして柿の実をいくつか残すことを布施柿と言うらしい。

布施柿という言葉を知ったのは、50歳をすぎてからであった。テレビを見ていたとき、どこかの地方でそう呼んでいる柿があることを偶然に知った。そんな柿があるんだ、と思った。大げさではないが、軽いショックを覚えた。
布施柿というのは、木になった柿の実を全部取ってしまわずに、いくらかは残しておいて、鳥たちへの「お布施」のようなものにしている柿のことである。鳥たちのことを考えて柿を残しておくというのは、考えてみたら、すごい発想だなと思った。かつて私の家の庭にも柿の木があった。でも布施柿という言葉は知らなかった。ひょっとしたら、近所の人はみんな知っていたのかもしれないが、私は知らなかった。知らなかったというだけではなくて、たぶん、もっと若い頃に聞いていても、こんな言葉に心を止めることはできなかったかもしれないと思う。
この布施柿という言葉の何がすごいかというと、そこに「自分の周りには他の生き物が居るんだぞ」ということをさりげなく教えてくれているところであろう。私はこの言葉を知ってから、それまでの秋の稲刈りの後、刈り残した穂はもったいなので丁寧に拾っていたのに(まさにミレーの『落ち穂拾い』の絵のように)、鳥が食べるかもしれないと思って、無理に全部拾わなくなってきている。
布施柿の心とは、全部取らないで、少し残しておく心のことだが、残す、というのは、微妙な心構えだと思う。あげるとか、めぐむとかいうのではなく、そんな恩着せがましさや、やってあげているというものではなく、ただ残しておこうとする心の動きである。それは、ものを残すということだけはなくて、人間の心に中に、他の生き物のことを思うゆとりを残しておくという意味でもあるような気がする。布施柿、こんなたった三文字の言葉を知っただけで、こんなにも心が広がるのは、不思議な感じがする。
京都新聞 2005.11.18

さて40個作った干し柿であるが、ほぼ全部どこかに青カビが残ってしまった。
焼酎消毒がきかなかったのではなく、ぬらしたのが一番の原因だろう。
ただ、雨に濡らさなかった2個だけはそれなりの?干し柿になった。
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ところで柿の実はあと少し残っているが、最後の1個は、「木守り」(きまもり)と言うらしい。
それも鳥たちのお布施になるのかな。
 1.木の番人。こもり。
 2.来年もよく実るようにという祈りをこめて、わざと木に一つだけ残して
   おく果実。
 《学研国語大辞典》
by shin0710s | 2016-12-08 21:20 | ことば | Trackback

伊藤比呂美さんの本を読む。

12月2日の朝日新聞の「折々のことば」
親の介護とは、親を送ると言うことは、自分の成長の完了じゃないか
にひかれ、『父の生きる』を求め、読む。
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伊藤比呂美さんが書き留めていたお父さんのことばを中心にまとめられた
介護日記である。お父さんの姿は私の身近な将来の姿である。

書き留めるうちに見えてきたのは、父の「生きる」。
やがて死ぬ。それは知っている。でもやっぱり怖い。死ぬのは怖い。死はどんどん近づくが、どんなに
近づいてもやっぱり遠い。その怖くて遠い道を一人で歩いて行く。
一歩一歩、重たい足を引きずりながら。そこにたどり着くまで、一日また一日を生き延びる。
その孤独を、その恐怖を、娘に打ち明ける父であります。

(光文社文庫P717~18)

長女に対する思い入れは、私も強いものがある。
いつでも、どこにいても、どんな状況になっても独り立ちできることを願いながら
育ててきた。
その私であるが、心身共に弱っていくのが人であるなら、私も心身共に
周りの人々に依存していくのだろうか。

ふと傍らを見るとワン公二匹。
眠そうにしている。
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何か用ですか?のジャスミン。
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私眠たいのです、のチョコマミー。
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午後のひとときである。
by shin0710s | 2016-12-05 15:59 | ことば | Trackback

生の意味を問う。

朝日新聞の今日の言葉についメモをとった。
「生きている理由を…問わずにいられないのは、『問う自分』と『問われる自分』の
歩調がどこか合っていないからだ」 
神崎繁

「問う自分」と「問われる自分」とは?
どちらが本物の自分なのか。
どちらも本物の自分、との答えが返ってきそうである。

子どもの頃から、自らを省みる「反省する」との思考を
重ねてきている。
また、教師をしている衣子どもたちに反省会と称して
学級指導を行ってきている。
反省する主体と反省する客体がある自分のなかにある。
このように言葉に頼って文章を連ねれば連ねるほど意味不明になった行く。

唯識という学問がある。
真宗では正信偈に
天親菩薩造論説
帰命無碍光如来
依修多羅顕真実
光闡横超大誓願

天親菩薩となっているが世親菩薩である。
この天親菩薩が唯識という学問を大成したとされている。
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唯識では人の心の有り様を
以下の図で表しているようである。
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さてこの図の中で「問う私」と「問われる私」はどこになるのだろうか。
by shin0710s | 2016-10-04 20:33 | ことば | Trackback

「西の魔女が死んだ」を見る。

残暑の後は、秋雨前線の影響で雨が続いている。
昨日今日と雨。
そこで2008年の映画「西の魔女が死んだ」を視る。
2001年には文庫本として出版されていた。
梨木香歩の作品である。新美南吉文学賞を受賞している。
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前回の「阪急電車」と同じように映画から本に向かう。
映画と本を比べる。本を映画化する監督の作品理解に驚かされる。
本を忠実に映写化しても作品の真髄は伝わるとは限らない。
むしろ、油絵等の絵画と同じように読んだり見たりした感動を
膨らまし影像化していくところに芸術家のすごさがあるのだろう。
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この「西の魔女が死んだ」は中学に進んでまもなく、どうしても学校へ足が向かなくなった少女まいは、
季節が初夏へと移り変るひと月あまりを、西の魔女のもとで過した。西の魔女ことママのママ、
つまり大好きなおばあちゃんから、まいは魔女の手ほどきを受けるのだが、
魔女修行の肝心かなめは、何でも自分で決める、ということだった。
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映画の中程で、主人公のまいは、おばあちゃんに尋ねる。
「人は死んだらどうなるの?」「わかりません、実は死んだことがないので」
「パパは、死んだらもう最後の最後なんだ、もう何にもなくなるんだ…」
「魂は、体がなくなっても長い旅をしなければなりません」

中学一年生のまいにとって「死」は、日頃は無縁のものである。
それは、私たちにとっても遠ざけたいものである。
しかしふとした瞬間に「死」が身近なものになってくる。
老若男女を問わず訪れるものである。
若いから関係ないではなく、若いからこそ人間関係の軋轢で
死が隣り合わせになってくることもある。
中学あるいは高校生の「いじめ」による自殺が紙面を賑わわせている。
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おばあちゃんの「魂は、体がなくなっても長い旅をしなければなりません」
の言葉は強く訴えるものがある。
「生」と「死」もまたこの小説の問いかけるものである。

横のベッドでは午睡を楽しむジャスミン。
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by shin0710s | 2016-09-14 17:00 | ことば | Trackback

読み方は難しい。

我が家から80mほどの所に一級河川緑川が流れている。
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そこに緑川をまたいで橋が架かっている。
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「あんしんばし」という。
60年ほど前はこの橋の半分がコンクリートで後半分が木製の
橋であった。
そのためこの台風時期となると豪雨で木製の部分が流されることが何度かあった。
それで子ども心に「あんしん橋じゃなく、しんぱい橋だ」なんて思っていた。

そのコンクリートの橋には名前がつけられていた。
「安津橋」と。
小学生の私には、「あんつ橋だって、おかしい。あんしん橋なのに」
と不思議でたまらなかった。
「津」を「しん」と読めるというのがわかったのは中学生になった頃である。

教師になって神戸で生活するようになったときのことである。
同僚の先生と有馬温泉に行ったとき「唐櫃台〔からとだいかつ」駅を通った。
「からびつ台とはおもしろい名前ですね。」

一度そのような経験をすると忘れられない記憶となる。
同じように大阪に向かう阪急電車の駅に
「しらみかわ駅」とあった。虱の字に似ていたのでそう思ってしまった。
「夙川駅(しゅくがわえき)」と知ったのも同じ経験である。
「十三駅」や「放出駅」もそうである。

逆にうれしかったのは、神鉄の「鵯越駅」である。また「湊川駅」も。
歴史が好きな私にとって地名として残っているのがうれしかった。

同僚の先生は佐賀の出身。実家の近くの駅名を示されたときも読めなかった。
「調川駅」と書いて「つきのかわえき」である。
歴史で学んだ「祖、庸、調」から来ているとか。

地名や人名は難しい。
最近は子どもの名前が読めない。
読めることを期待していないのかもしれない。
リオ五輪に出場した今井 月(いまい るな)選手も難しい。
しかし、こんな読み方もあっていいかなと思っている。
by shin0710s | 2016-09-07 21:30 | ことば | Trackback

二百十日

立春から数えて二百十日。今年は昨日だったらしい。
9月1日がつい二百十日目にあたると思ってしまう。
また今日は防災の日でもある。

「防災の日」は、1960年(昭和35年)に、内閣の閣議了解により制定された。
9月1日の日付は、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災にちなんだものである。
また、例年8月31日 - 9月1日付近は、台風の襲来が多いとされる二百十日にあたり、
「災害への備えを怠らないように」との戒めも込められている。

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昨日午後7時50分頃震度4.9そして今日は午前6時半頃4.7
の地震が起こっている。
この大きさの地震になると4月の地震を思い起こし、恐怖が身体を襲う。
そしてあの家屋等が倒壊する悲惨な状況が目に浮かぶ。

そして台風12号が発生し、九州に向かいそうだとの予報も出ている。
台風10号は東北・北海道に甚大な被害をもたらしている。

天災は忘れた頃にやってくる、と寺田寅彦の警句だと言われているが、
真偽は別にしても今年の本県の災害は、1月の大雪、そして4月の熊本地震、
さらには6月の1時間150mmの記録的豪雨と休む間もなく災害が襲ってきている。
天災の言葉にそぐわない頻度の災害である。

昨日今日と続いた地震が次への大きな地震につながるのではと思うと地震に対する備えが
改めて必要になる。
それに週末は、台風の接近上陸に対しても備えなければ。
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by shin0710s | 2016-09-01 20:59 | ことば | Trackback

有意義の呪縛

朝日が昇る。
午前6時。
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先日、かって同勤した仲間ととの月に一度の会をもった。
同勤したのは20年近く昔のこと。
退職後年に数回、会食を共にしていたが、ここ数年月1回ほどのペースで
会っている。

三人会である。近況報告であり、日頃思っていること、考えたことを
レジメとしてまとめたり、口頭で述べたりしている。
先日は、私が、思いつくままに書き留めたことを俎上のせた。

思いつくままの文章であり、論議するに耐えるものではないが、そのことを気に掛けることなく
語り合える会である。

今こそ人生の夏休み
       
 8月26日(金)。今年は、8月下旬から熊本地震の影響で県内の学校では2学期が始まっているらしい。季節は、この後秋そして冬と進んでいくが、しばらくは残暑厳しい日々が続くだろう。つい子どもたちや先生たちの苦労を思う。

 さて私の今は、日々の生活時間がゆっくりと流れている。明日の仕事に悩まされることがほとんどなくなった。
 時間はゆっくり流れ、たっぷりある。ただ体力的には若い時代のようなわけにはいかない。
 
 今年は、孫守として海水浴に出かけた。海に着き、水着に着替える。若い時代ならば少し沖まで泳いでみよう、ビーチボールで遊ぼうなど海で遊ぶ楽しさを満喫していたものだが。今は少しだけ海に入り浮き輪を使ってプカプカ漂うのみであった。
 海水浴場では明るく元気な声が響き渡っている。若者たちの躍動する肉体がまぶしい。
夏の海は、子どもたちの楽しげな悲鳴や金切り声が夏の陽射しと相まって、青春そのものであり人生の朱夏でもあると思い知らされる。

 孫娘の砂浜で遊ぶ姿や水辺で水と戯れる姿を見守り、時折孫たちと海水に身を委ね
のが今の私である。私の今は人生の白秋の黄昏であり玄冬の曙である。

 この暑い中、あくせく働く必要も求められることもない今の私である。肉体的には子どもの時代や青年そして壮年時代に帰ることはできない。心は、精神は、意識は、あるいは思いは、等いろいろな言葉で表される今が多くの束縛を解き放たれている自由な時である。また過去現在未来を自由に行き来できる。これこそあの少年時代の特権を持つ時代である。

 私は、今の私のこの時間を人生の夏休みとして味わいたいと思う。少年時代、この季節は読書を楽しんでいた。
 ダニエル・デフォーの「ロビンソンクルーソー」ジュール・ヴェルヌの「海底2万里」「八十日間世界一周」「十五少年漂流記」等を胸をどきどきさせながら読んでいた。
そうそうコナンドイルのシャーロックホームズになってロンドンの街を動き回っていた。

 図書室から借りてきた伝記「イエス・キリスト」「日蓮聖人」を読み終えて鼻高々に父に話していた。父の複雑な顔が思い出される。
 ただ読むことに喜びを感じていた。読みたいから読む。楽しいから読む。ヒーローやヒロインになれるから読むだけであった。その少年時代のようにただ読書をしていきたいと思う。

 実は、退職後に興味を持って読み始めた本がある。
「心という難問」空間・身体・意味
私が見たり聞いたりしているこれは、本当に世界そのものなのだろうか。
かっては誰も見通すことができなかった、知覚し感覚するという経験を解き明かす、思考のドキュメント。
ついに世界と心ある他者に出会えた。
            野矢茂樹著 講談社

改訂版
なぜ意識は実在しないのか
0(ゼロ)次内包から無ないほうへー進化した永井ワールドへ誘う全面改訂版
            永井均  岩波現代文庫

 読み始めたけれど歯が立たなかった。興味があるのだけど、私の知識では理解しがたい言葉であり文脈である。それでも背伸びしてでも読みたいと思っているが、読み始めると字面だけを追っていることに気づかされる。この本はしばらく置いておくことにする。
 それよりむしろ少年時代のように興の赴くままに物語にはまり込んでいきたい。
そこでまずはアニメを見て興味があった上橋菜穂子さんの「精霊の守人」から読み始める。読み始めると止まらない。本を批評するために読むのではなく、ただ楽しいから、おもしろいから読む。
 青年になって特に教師になってからの読書は、批評をしたり、授業等に何らかの役に立つのではないか、との意識が常にあった。
 また青年期に生涯の師から与えられた課題「存在の意味」そして「存在の罪」が私のすべての行為や思考への問いかけとしてあった。その答えを求めていたし、その課題が私の生きる意味として横たわってきた。
  教職等の仕事から解放され自由な時間が与えられたとき、師からの課題に取り組んでみた。それは、仏教の「唯識」である。唯識3年倶舎8年といわれるほど難しい仏教学である。

 心の仏教
唯識
龍谷大学文学部教授 楠 淳證  自照社出版
 人間の不可解な「こころ」を解き明かし、真の安らぎへの導く「唯識仏教」を概観
そして「廃仏毀釈」である。
廃仏毀釈百年 鉱脈社
佐伯 恵達
幕末から明治、日本人の精神風景は一変した。何があったのか。

 仕事を辞め一年間課題への道筋として読み、考え求め続けてきた。そして今は少し立ち止まりたいと思っている。老い先は短いかもしれない。求めるものは得られないかもしれない。それでも幼い孫娘たちを見るときこの今の時をゆっくりと味わい楽しんでもいいように思えてきた。

 時間の自由な人生の夏休みは、「~しなければならない」の呪縛から解き放たれる時である。悪いところ足りないところを見つけそこをなくしていく。そのような教職生活であった。それが自分の生き方であると思ってきた。
 人生の夏休みを波間に漂うようにゆっくりゆったり過ごしていこう。
なかでもファンタジーな作品は、あの当時の無限の可能性を確信していた少年時代に帰ることができるはずである。

上橋菜穂子「守り人」文庫版10冊を読み終える。

上橋 菜穂子(うえはし なほこ、1962年7月15
日 - )は、東京都生まれの児童文学作家、ファンタジー作家、SF作家、文化人類学者。
立教大学文学部史学科卒業、1993年同大学院博士課程(後期課程)単位取得退学。2007年「ヤマジー(英語版) ある「地方のアボリジニ」のエスニック・アイデンティティの明確化と維持について」で立教大学文学博士。川村学園女子大学児童教育学科教授」

そして同じ作者の「獣の合奏」4冊にむかう。

なかなか全体をつかむことができなかった漫画「ファイブスターストリーズ」13巻を求め読み直す。

更に、「ゲド戦記」にも興味がわく。
夏、家にいるならば読書である。
図書館に行くのもいい。
ただ、つい図書館では、人の目が気になる。
我が家で読書が一番と思っている。
さて次は本屋大賞に選ばれた「鹿の王」上下にむかうことにする。
この人生の夏休みをもう少し楽しみたい。そしてゆっくりゆったりと人生の課題にチャレンジしたい。


雑多な思いである。それを三人で自分の日々の生活に照らし合わせて語る。
それだけに今後の生きていく示唆に富む言葉を聞くことができる。

今回は、「有意義の呪縛」という課題を持つこととなった。
by shin0710s | 2016-08-28 06:38 | ことば | Trackback

立秋が過ぎたというものの。

庭に出ると、気温36度の空気がまとわりつく。
地面に近いので40度近い?
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連日の猛暑のために龍のヒゲが変色している。
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おや、誰かいる。
これは、誰かな?
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ショウである。我が家の三代目リーダーである。
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他に枯れそうになっている木はないか?
そう思って家の周りを歩く。
家の横に用水路がある。
緑川から引き込まれている小さな用水路。
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これだけで涼しさがずいぶん違う。
更に、我が家の先には田んぼが広がる。
田んぼからの風もまたずいぶん涼しいはず。
だけど…
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「言うまいと思えど今日の暑さかな」
暑い!
by shin0710s | 2016-08-08 15:41 | ことば | Trackback