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白秋の黄昏

カテゴリ:ことば( 89 )

友とするに悪き者、七つあり

サクラとスミレは三女のワン公。
今は白秋家に居候しているが、来週からは、二匹一緒の
生活がまた始まる。
長年一緒にいるので仲よく過ごすことができている。


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3週間ほど入院して健康のありがたさ、自由に動くことのできるすばらしさを
改めて知ることになった。
退院した後も体調が元に戻るためには若い時代と違ってかなりの時間が必要なことも。

それまで手術が必要になる病気や怪我をすることがなかった。
当然入院したのは健康診断の時だけである。
健康であることを自慢することはなかったが病気や怪我等で入院されている
人への思いやりなどは、本当に軽いものであったことがよくわかる。

第百十七段 友とするにわろき者

 
  友とするにわろき者、七つあり。一つには、高くやんごとなき人。

二つには、若き人。三つには、病なく身強き人。四つには、酒を好む人。


五つには、猛く勇める兵(つわもの)。六つには、虚言(そらごと)する人。七つには、欲深き人。


よき友三つあり。一つには、物くるる友。二つには、医者(くすし)。三つには、智慧ある友。


さすが兼好法師である。


by shin0710s | 2017-07-16 20:59 | ことば | Trackback

一粒の種死なずば…

枇杷の実がいい色になった。
美味しそうな色である。
今年はじめて実をつけた。

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実生の枇杷の木だから、味は保障できないし、大きさも当てにならない。

3年ほど前中庭に枇杷の幼木が見え始めた。
すぐそばに母が植えた枇杷の木がありよく実をつけていたが
とることもないので、熟しすぎて落ちていた。
あるいは鳥たちのエサになったりしていた。

それが少し離れた場所でどんどん大きくなってきた。
桃栗三年柿八年との言葉があるが、枇杷は3年ほどで二階のベランダに達するほどになっている。
そして今年はベランダから手を伸ばせば届く高さになっている。
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「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、
                 死なば多くの実を結ぶべし」
                          (ヨハネ伝より)

そして今年は実をつけた。食べたところ意外に美味しく、
大きさもそこそこである。

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来年は、袋かけをしてみようかと思っている。
きっと美味しい枇杷の実がとれるはずである。

部屋の中では、チョコマミーが退屈している。
まだ私が散歩できないのでずっと部屋犬である。

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ジャスミンはちょこっと出ることができるが、チョコマミー
は鉄砲玉。外に出したら帰ってこない。


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by shin0710s | 2017-06-13 16:22 | ことば | Trackback

雲を見ると

いつも思うわけでは無いが、青空に浮かぶ雲に何と無く
見とれてしまう事がある。
空に浮かぶ雲が、心の風景と重なる時何か言葉を探すのかも知れない。

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ある時
山村暮鳥

雲もまた自分のようだ
自分のように
すっかり途方にくれているのだ
あまりにあまりにひろすぎる
淵のない蒼空なので
おう老子よ
こんなときだ
にこにこして
ひょっこりとでてきませんか

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by shin0710s | 2017-06-02 11:07 | ことば | Trackback

桑の実は熟した?

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童謡「赤とんぼ」は、私にとって「桑の実」と共に
思い出す歌である。
「山の畑の桑の実を 小かごに摘んだはまぼろしか」
二番の歌詞である。
赤とんぼの題名であるから秋の状況を思い起こしながら
の歌と思っていた。

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一週間前の桑の実である。
もう真っ黒に熟しているはず。
小籠にこそ摘むことはなかったが
桑の実は甘くてみずみずしい木の実である。
ただ口の中が真っ黒になりすぐ親にばれていたが。

桑の実の季節は夏である。
それにしても赤とんぼの歌詞はいろいろなかっての出来事を
思い出させてくれる。
「結婚したけど、まだ緑川でおよぎたかった。」
といっていっていた祖母。
数え年14歳で結婚していた。


by shin0710s | 2017-05-28 18:21 | ことば | Trackback

生死の中雪ふりしきる

寒い一日であった。
雪がときおり舞っていた。九州山脈は雪雲に覆われている。
三十年以来の畏友と思いついたようにメールのやりとりをしている。
心許せる友なので忌憚のないことばのやりとりもある。
お互いに数え年なら今年は古稀の年。
十分すぎるほど生きてきた。
それぞれに与えられた仕事を全うしてきた。
そしていま、ふっと我が身を振り返ると老いたる我が姿がある。
十分満足しているはずなのに「独りぼっち」の我が身である。

生老病死の姿は、独りぼっちの私であることを教えるものであろう。若い頃は気づかなかった。
仕事あるいは家族との生活の中で多くのことばが行き交い心穏やかに過ごすこともままならない日々であった。
それが仕事を終えた今、子どもたちは巣立つ中で間違いなく一人になって行くことが遠い将来ではない。

西行、兼好、長明あるいは山頭火、放哉の独り生きるすがすがしさあるいは強さが感じられる。
「独り法師」の目覚めがあったのであろうか。

「人在世間・愛欲之中・独生独死・独去独来・當行至趣・苦楽之地・身自當之・無有代者」
(人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し、独り去り独り来りて、
行に当たり苦楽の地に趣く。身自らこれをうけ代わる者あることなし)
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生死の中雪ふりしきる

紀野一義は、この句を引きつつ

さびしい観音堂の中で山頭火はなにを考えていたろうか。それは、生と死とを無限に繰り返す輪廻転生世界のこと、悩みや苦しみに満ちた凡夫の人生のことである。‥生死の世界の中に雪が降りしきるのではない。雪もまた、「生死の中の雪」である。生死の迷いを清める雪ではなくて、いよいよ深く降り積もる迷いの雪である、と。


by shin0710s | 2017-02-10 17:48 | ことば | Trackback

ただいま青春?

昨年の十月から始めたお絵かきデッサンも3ヶ月あまり。
今は、リンゴ等の静物デッサンから、ワン公のお絵かきに夢中になっている。
古いデーターの写真を引っ張り出しそれを鉛筆で模写している。
まさかこんなにおもしろく楽しい時間を過ごすことができるとは思わなかった。
古希を迎えた私がこのように夢中になる時間に出会えることは驚きである。
夢中になる時間を持つことは青春時代の特権?

ただ、若い頃のことを振り返ると、
いろんな事にチャレンジしていた。
茶道、ギター、書道等がある。
しかし途中で放棄。
物にならなかった。続いていることと言えば、バドミントン。
30年近く続いている。
しかし体力的にもう無理かな。
このお絵かきデッサンが続いたらいいのだが。
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ドイツ出身のアメリカの詩人サミュエル・ウルマン(1840年~1924年)の詩に、
【青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方を言う】
がある。


 青 春     サムエル・ウルマン

青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。

優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,

こう言う様相を青春と言うのだ。

年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。

歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。

苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、

精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。

曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、

事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味

人は信念と共に若く
人は自信と共に若く
希望ある限り若く 
   疑惑と共に老ゆる
恐怖と共に老ゆる
失望と共に老い朽ちる

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を受ける限り人の若さは失われない。

これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば

この時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。



by shin0710s | 2017-01-24 20:43 | ことば | Trackback

布施柿

2階からは、脊山の先の甲佐岳がかろうじて見える。
暦の上では初冬であるが、未だ晩秋の趣がある。
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境内の柿の実が残り少なくなった。
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今年は、40個ほど干し柿を作ることにした。
慣れない手つきで、皮をむき外に干したら、その夜雨に遭ってしまう。
慌てて家に入れたけれど、外に干し忘れた2個以外は全部ぬれてしまう。
次の日見たら、青カビ発生。
焼酎で吹けば取れるというのでやってみる。
取れたような取れないような…

さて、境内の柿の実は?
小鳥たちの食物である。
カラスやヒヨドリ?雀?午前中は入れ替わり立ち替わりして
柿の実を啄んでいる。
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カラスがくると一斉に逃げ出す。
カラスはここでは王様。
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こうして柿の実をいくつか残すことを布施柿と言うらしい。

布施柿という言葉を知ったのは、50歳をすぎてからであった。テレビを見ていたとき、どこかの地方でそう呼んでいる柿があることを偶然に知った。そんな柿があるんだ、と思った。大げさではないが、軽いショックを覚えた。
布施柿というのは、木になった柿の実を全部取ってしまわずに、いくらかは残しておいて、鳥たちへの「お布施」のようなものにしている柿のことである。鳥たちのことを考えて柿を残しておくというのは、考えてみたら、すごい発想だなと思った。かつて私の家の庭にも柿の木があった。でも布施柿という言葉は知らなかった。ひょっとしたら、近所の人はみんな知っていたのかもしれないが、私は知らなかった。知らなかったというだけではなくて、たぶん、もっと若い頃に聞いていても、こんな言葉に心を止めることはできなかったかもしれないと思う。
この布施柿という言葉の何がすごいかというと、そこに「自分の周りには他の生き物が居るんだぞ」ということをさりげなく教えてくれているところであろう。私はこの言葉を知ってから、それまでの秋の稲刈りの後、刈り残した穂はもったいなので丁寧に拾っていたのに(まさにミレーの『落ち穂拾い』の絵のように)、鳥が食べるかもしれないと思って、無理に全部拾わなくなってきている。
布施柿の心とは、全部取らないで、少し残しておく心のことだが、残す、というのは、微妙な心構えだと思う。あげるとか、めぐむとかいうのではなく、そんな恩着せがましさや、やってあげているというものではなく、ただ残しておこうとする心の動きである。それは、ものを残すということだけはなくて、人間の心に中に、他の生き物のことを思うゆとりを残しておくという意味でもあるような気がする。布施柿、こんなたった三文字の言葉を知っただけで、こんなにも心が広がるのは、不思議な感じがする。
京都新聞 2005.11.18

さて40個作った干し柿であるが、ほぼ全部どこかに青カビが残ってしまった。
焼酎消毒がきかなかったのではなく、ぬらしたのが一番の原因だろう。
ただ、雨に濡らさなかった2個だけはそれなりの?干し柿になった。
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ところで柿の実はあと少し残っているが、最後の1個は、「木守り」(きまもり)と言うらしい。
それも鳥たちのお布施になるのかな。
 1.木の番人。こもり。
 2.来年もよく実るようにという祈りをこめて、わざと木に一つだけ残して
   おく果実。
 《学研国語大辞典》
by shin0710s | 2016-12-08 21:20 | ことば | Trackback

伊藤比呂美さんの本を読む。

12月2日の朝日新聞の「折々のことば」
親の介護とは、親を送ると言うことは、自分の成長の完了じゃないか
にひかれ、『父の生きる』を求め、読む。
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伊藤比呂美さんが書き留めていたお父さんのことばを中心にまとめられた
介護日記である。お父さんの姿は私の身近な将来の姿である。

書き留めるうちに見えてきたのは、父の「生きる」。
やがて死ぬ。それは知っている。でもやっぱり怖い。死ぬのは怖い。死はどんどん近づくが、どんなに
近づいてもやっぱり遠い。その怖くて遠い道を一人で歩いて行く。
一歩一歩、重たい足を引きずりながら。そこにたどり着くまで、一日また一日を生き延びる。
その孤独を、その恐怖を、娘に打ち明ける父であります。

(光文社文庫P717~18)

長女に対する思い入れは、私も強いものがある。
いつでも、どこにいても、どんな状況になっても独り立ちできることを願いながら
育ててきた。
その私であるが、心身共に弱っていくのが人であるなら、私も心身共に
周りの人々に依存していくのだろうか。

ふと傍らを見るとワン公二匹。
眠そうにしている。
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何か用ですか?のジャスミン。
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私眠たいのです、のチョコマミー。
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午後のひとときである。
by shin0710s | 2016-12-05 15:59 | ことば | Trackback

生の意味を問う。

朝日新聞の今日の言葉についメモをとった。
「生きている理由を…問わずにいられないのは、『問う自分』と『問われる自分』の
歩調がどこか合っていないからだ」 
神崎繁

「問う自分」と「問われる自分」とは?
どちらが本物の自分なのか。
どちらも本物の自分、との答えが返ってきそうである。

子どもの頃から、自らを省みる「反省する」との思考を
重ねてきている。
また、教師をしている衣子どもたちに反省会と称して
学級指導を行ってきている。
反省する主体と反省する客体がある自分のなかにある。
このように言葉に頼って文章を連ねれば連ねるほど意味不明になった行く。

唯識という学問がある。
真宗では正信偈に
天親菩薩造論説
帰命無碍光如来
依修多羅顕真実
光闡横超大誓願

天親菩薩となっているが世親菩薩である。
この天親菩薩が唯識という学問を大成したとされている。
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唯識では人の心の有り様を
以下の図で表しているようである。
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さてこの図の中で「問う私」と「問われる私」はどこになるのだろうか。
by shin0710s | 2016-10-04 20:33 | ことば | Trackback

「西の魔女が死んだ」を見る。

残暑の後は、秋雨前線の影響で雨が続いている。
昨日今日と雨。
そこで2008年の映画「西の魔女が死んだ」を視る。
2001年には文庫本として出版されていた。
梨木香歩の作品である。新美南吉文学賞を受賞している。
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前回の「阪急電車」と同じように映画から本に向かう。
映画と本を比べる。本を映画化する監督の作品理解に驚かされる。
本を忠実に映写化しても作品の真髄は伝わるとは限らない。
むしろ、油絵等の絵画と同じように読んだり見たりした感動を
膨らまし影像化していくところに芸術家のすごさがあるのだろう。
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この「西の魔女が死んだ」は中学に進んでまもなく、どうしても学校へ足が向かなくなった少女まいは、
季節が初夏へと移り変るひと月あまりを、西の魔女のもとで過した。西の魔女ことママのママ、
つまり大好きなおばあちゃんから、まいは魔女の手ほどきを受けるのだが、
魔女修行の肝心かなめは、何でも自分で決める、ということだった。
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映画の中程で、主人公のまいは、おばあちゃんに尋ねる。
「人は死んだらどうなるの?」「わかりません、実は死んだことがないので」
「パパは、死んだらもう最後の最後なんだ、もう何にもなくなるんだ…」
「魂は、体がなくなっても長い旅をしなければなりません」

中学一年生のまいにとって「死」は、日頃は無縁のものである。
それは、私たちにとっても遠ざけたいものである。
しかしふとした瞬間に「死」が身近なものになってくる。
老若男女を問わず訪れるものである。
若いから関係ないではなく、若いからこそ人間関係の軋轢で
死が隣り合わせになってくることもある。
中学あるいは高校生の「いじめ」による自殺が紙面を賑わわせている。
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おばあちゃんの「魂は、体がなくなっても長い旅をしなければなりません」
の言葉は強く訴えるものがある。
「生」と「死」もまたこの小説の問いかけるものである。

横のベッドでは午睡を楽しむジャスミン。
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by shin0710s | 2016-09-14 17:00 | ことば | Trackback

ビーグル1匹、ダックス5匹の愛犬と猫2匹の動物たち。周囲約7kmの世界で見聞したことを日記風に書いています。