一房の葡萄」を思い出す。

太鼓に、
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さくら太鼓

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すみれ太鼓

そして劇に、
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歌に…
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と子どもたちは大忙し。
園全体が、生活発表会に向けて動いている。
もちろん子どもたちも。


「歌壇の花を全部ちぎっているんですよ。」
「靴を隠しているんですね、時々はその靴を水浸しに。」
「かべに落書きをしているんです。」

小学校の職員室での話題がでてきた。

先日の会議のことである。
このようないたずらや悪さは、最近の子どもの特徴ではなく
10年前も20年前も起こっていたことである。
何も最近の小学生が特に悪くなったというのではない。

担任をしていた頃と言えば20年近く前のことになるが、
実際このようなことはしばしば起こっていた。
そこでまずは、子どもたちを集める。
次にみんなの問題とする。
みんなで考えて一人一人の考えや
思いを出し合いながら二度とこのようなことを起こさない学級にしようと
話し合ってきた。
また子どもたちもしっかり考えて、みんなで反省すべきことは
十分分かることができていた。
そこでは当然、「私がしました。」「ぼくが隠しました。」
と名乗り出てきていた。

それが、最近は「悪さをした子」「いたずらした子」
が出てこないというのである。
担任がいくらがんばってもダメ。どれだけ時間をかけても出てこない。

「私がしました。」「ぼくが隠しました。」
の言葉が出てくると、子どもの気持ちに添った指導が出てくる。
そこに教育がある。当人だけでなく学級の問題として考えることができる。
名乗りがないとそれができないのである。
それどころか、分からなければいいんだと考えてしまう子も出てくる。


この話を聞き中学にいたときのことを思い出す。
「お金がなくなった」「ものが盗まれたようだ」
の生徒の被害が出てくる。
当然子どもたちの話を聞きながら調べるのだが、
学校では、持ち物検査とか一人一人の聞き取りなどはなかなかできない。
「おまえたちを信頼している」と言いながら取り調べ的になる。
「先生は、私たちを信じていない」
等の言葉で教師と生徒の信頼関係が悪くなる。

従って予防に力を入れる。学校に不必要なもの、高価なもの
お金等は持ってこない。
校納金等は、朝一番に先生に提出すると言った指導である。
これは小学校においても同様である。

盗まれる方が悪いとまでは言わないが…。
無くなったものは出てこない、と言うことである。

ただ、ある中学の先生の
「教師が、上からの目線とか、指導とかの立場で
これらの問題に関わっても生徒は答えてくれない。
教師が、生徒を一人の人格ある人ととして接していくなら心を開いてくれる」
との言葉があった。


「一房の葡萄」
の童話を思い出す。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/211_20472.html

小学生の頃、有島武郎のこの童話を読んで、胸が痛くなるくらい
心が激しく揺れ動いたことを。

それぞれの子どもたちが小さな秘密を持っている。
子どもたちなりに人に知られたくない悪さをしたことがある。
その悪さ、いたずらで自らを縛っていることだってあろう。

教師としてそれを解きほぐす力を付けたい。
そう思ったときこの「一房の葡萄」を思い出す。
by shin0710s | 2010-02-10 16:10 | Trackback

ダックス4匹の愛犬と猫1匹の動物たち。周囲約7kmの世界で見聞したことを日記風に書いています。


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