2012年 01月 04日
「周利槃特/チューダ・パンタカ(Cuuda-pantaka)」にならう。
まだあたりは真っ暗である。
すぐ投げ出したり飽いてしまう私にしては、よく続いている。
つき始めて2年半。
ほぼ毎日続けることができている。
朝、鐘楼に登り鐘を撞く。
梵鐘には、「響流十方」「南無阿弥陀仏」
の言葉が記してある。
合掌をし、心を込めて鐘を撞く。
そうありたいと思いながら、実際は、
「寒いなあ」「今日は、この後何をしなければならないのかな」
「今日は、あれと、これをしなければ…」
などが念頭に浮かぶ。
阿弥陀経に「周利槃特/チューダ・パンタカ(Cuuda-pantaka)」の名が出てくる。
周利槃特は、非常に物覚えが悪く、自分の名前すら忘れてしまい、
自分の名前が書かれた札を、背中に貼られていたというほどである。
その周利槃特にお釈迦様は、
「お前はこの箒を持って、今日から毎日、精舎の掃除をしなさい。
そして、掃除をしながら『塵を払い、垢を拭わん』と称え続けるんだ。
これだけ短い言葉なら、お前にも覚えられるだろうからね」
その日から周利槃特は、釈迦に言われた通り、
ただ一心に、『塵を払い、垢を拭わん』という言葉を称えながら、
来る日も来る日も、精舎の掃除だけに徹した。
「“塵”とは何だろう? “垢”とは何だろう?」
と。
周利槃特は、延々と掃除をしながら何十年も考え続け、
終に、それが自分の心の中にある『三毒』に他ならないことに気付く。
※【三毒】むさぼり(貪欲)・いかり(瞋恚)・おろかさ(愚痴)
「どんな人の心の中にも、この三つがある」
このことこそが、釈尊の教えであることに気付いた周利槃特は、
一心に箒を持って掃除をすることだけによって、
阿羅漢の覚りを得ることができたのである。
さて私はどうであろう。
ただ一心に、『塵を払い、垢を拭わん』という言葉を称えながら
鐘を撞いているのだろうか。
それどころかこの三毒の真ただ中にありながら鐘を撞いている。
それでも、こうして鐘を撞くことが
今の私にとって生を実感するときである。