2015年 01月 13日
遠い昔のことだけど。
さて、何を書こうか。
文化の香りがするような文章は書けないし、
文化財の出会うための活動もしていない。
仕方ないので子どもの頃の出来事を記してみる。
これが文化協会の会報の原稿になるかどうか、判断できない。
もしかすると別の原稿になるかもしれないが…
朝から、防空壕探検をしてね・・・
「掃除をしません。いつも掃除の時間には逃げています・・・」と通知票に書いてあった。
小学校3年生の時である。実は、朝から道草を食っていたのである。
いや食わされていたのかも。中学生の遊びに引っ張られていたのである。
場所は、「軍人墓地」。ここには防空壕があった。
この上は、通称「免の山」と呼ばれる「陣の内館」跡。この防空壕はかなりの大きさであった。
甲佐町文化協会が発行している「ふるさと」第77号に文化財保護委員の「清村一男先生」の
「下豊内地下軍需工場」によると縦横3.6m程の洞窟になっている。
それが、100m以上の奥行きがあり3列並んでいた。
それぞれにつながる横の道があった。
特に奥の3番目の防空壕はしばらく進むと真っ暗になりドキドキ感は最高潮になる。
ここに毎日のように連れて行かれた。コウモリがいたし、ゲジゲジがいた。
ここで飛行機を作ろうとしていたなど子どもどうし語り合っていた。
なぜここに朝から行っていたのか分からない、また、中学生に反抗できるはずもない。
それがどれくらいの期間だったかも覚えていない。当然、朝の掃除に間に合うはずがない。
結果的には、掃除嫌い。逃げ出すのレッテルを貼られることになる。
ただ、6年生になったとき、友達と松明を作っての大冒険に結びついたのは
この時のことが仲間にとっての喜びであったからに違いない。
さて、その場所であるが防空壕はもう探検する場所はない。
そこで目につけたのが新しい場所である。
防空壕の入口の横を新井手がある。
それに平行して同じくらいの隧道がこの防空壕下にあり、未知の洞窟が続いていた。
この高さ1m横1mくらいであった。
村の友達と小銭を合わせ、灯油を買って松明を作る。
その松明をもって未知の洞窟へ入っていった。
1mもないくらいの高さである。火を点し膝を曲げて進む。
途中で横穴があり、堆積していた土のため更に狭くなっていた。そこを乗り越え進む。
前進する内に息が苦しくなった。松明の煙が洞窟に充満していたのである。
あまりの苦しさに我がちに入口に向かって逃げ出す。
外に出て青空を見たときのうれしさは、九死に一生を得た喜びであった。
村に帰るときの仲間たちの沈黙があった。決してこのことを誰にも言うまい。
スタンドバイミーではないけれど、少年の日の懐かしい思い出である。
さて、今その洞窟はどうなっているのだろうか。
清正公山から免の山は、当時の子どもたちにとって格好の隠れ家であり遊びの場所であった。
そして今、ここは文化財の宝庫である。「陣の内館」がある。
「下豊内軍需工場」としての防空壕がある。
木原寿八郎の名前と共に「新井手」として記録にも残っている。
横穴古墳もある。
さて、少年の日探検したあの洞窟はどのようにいわれのものだったのだろうか。
考えるととんでもない子どもの時代である。火遊びはするし、まかり間違えれば大けがをするか、
死亡事故になっていたかもしれない出来事である。
もう半世紀以上も昔のことであるから時効であるだろうけど、そのことについて
幼友達と話をしたことはない。
覚えているだろうか。