自分さがしの旅。

本日をもって教育関係の仕事から完全に離れる。
神戸市の教職員としてスタートして以来
66歳の本日まで多くの子どもたちや先生方と出会ってきた。
一年365日、子どものこと学校のこと先生方のことに考えを
巡らすことのほとんどであった。
そんな中で自分はどのように生きればいいのか、と思い悩むことはあったが
それは、教育に付随することから生まれる課題であった。
このどう生きるか、どう生きていくかは、誰にとっても
最も切実で最も大切なことではないのか。
この問題には、いかなる人も、最後には自分自身で決定を下さなければならない。
仏教学の泰斗中村 元博士は自己を知ることは正しく生きる基盤であり、
人生を通じ自己を探求するのは、人間の本性であると述べておられる。
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しかし大人にとっては、自分探しの旅は、
中途半端な生き方であるとの意見もある。
いつまでも中途半端に自分さがしを続けるより、
自分が置かれた場をわきまえて研鑽に励むことが成長の力になり、
成長による達成感が自己に対する自信や誇りを生む、というのである。
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自分探しは、自分の生き方を問うということであり、
人が人である限りどこまでも続く問いであると考える。
中途半端な生き方しかできないのは、生身である人間の業ではないのか。

渡辺和子ノートルダム清心女子学園理事長は、
「境遇を選ぶことはできないが、生き方を選ぶことはできる。
『現在』というかけがえのない時間を精一杯生きよう」とされ、
「どんな所に置かれても、そこで環境の主人となり
自分の花を咲かせようと、決心する」生き方が大切と言われる
(「置かれた場所で咲きなさい」幻冬舎)。

父が私の妹の結婚式で述べた言葉が
「随処に主となれば立処(りっしょ)皆真なり」
の一句である。いつどこにあっても、如何なる場合でも何もの にも束縛されず、
主体性をもって真実の自己として行動し、 力の限り生きていく。
そうすれば、何ごとにおいても、いつ如何なるところにおいても、
真実を把握出来、いかなる外界の渦に巻き込まれたり、翻弄されるようなことは無い。
そのとき、その場になりきって余念なければ、
そのまま真実の妙境涯であり自在の働きが出来るというものである。
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その通りであろう。まさに目覚めた人であり、信仰に生きる人の言葉である。
だが我々人間はそんなに強いものであろうか。生身の人間から煩悩を取り除くことはできない。
煩悩があるからこそ、喜怒哀楽の世界がある。
日々好日と受け止めることができないのが人間である。長く雨が降れば早く晴れの日にならないかと思い、晴れの日が続けば、一雨欲しいものと思う。それが私である。
自分探しは、迷いの道である。しかし努力する限り、迷いは必ず生じる。自分探しは、これで良しとすることのない真実を求める精進の姿であるととらえたい。
山頭火ではないが、今からが私の自分探しの旅が始まる。
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by shin0710s | 2015-03-31 19:32 | 子ども | Trackback

ダックス5匹の愛犬と猫2匹の動物たち。周囲約7kmの世界で見聞したことを日記風に書いています。


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