2016年 10月 04日
生の意味を問う。
「生きている理由を…問わずにいられないのは、『問う自分』と『問われる自分』の
歩調がどこか合っていないからだ」 神崎繁
「問う自分」と「問われる自分」とは?
どちらが本物の自分なのか。
どちらも本物の自分、との答えが返ってきそうである。
子どもの頃から、自らを省みる「反省する」との思考を
重ねてきている。
また、教師をしている衣子どもたちに反省会と称して
学級指導を行ってきている。
反省する主体と反省する客体がある自分のなかにある。
このように言葉に頼って文章を連ねれば連ねるほど意味不明になった行く。
唯識という学問がある。
真宗では正信偈に
天親菩薩造論説
帰命無碍光如来
依修多羅顕真実
光闡横超大誓願
天親菩薩となっているが世親菩薩である。
この天親菩薩が唯識という学問を大成したとされている。
唯識では人の心の有り様を
以下の図で表しているようである。
さてこの図の中で「問う私」と「問われる私」はどこになるのだろうか。