本町の広報に文化財探訪欄がある。文化財委員で担当しているが、近く私の番が回ってくる。
そこで、気にかかっていた遺跡を確かめに出かけた。
車や人が通る場所ではないので、木々が生い茂り標柱さえ見えなくなっていた。
何はともあれ草刈りから始める。
小一時間で何とか姿が現れた。
新甲佐町史には、
緑川左岸の安津橋際にあって、15世紀ごろに刻まれたものと考えられている。
壁には阿弥陀如来、勢至菩薩、観世音菩薩が刻み込まれている。
ここは、緑川によってけずられた阿蘇火砕流の崖が直立しており、火砕流は溶結度の低い溶結凝灰岩である。
そのために文字や絵を刻み込みやすかったのであろう。
と記してある。
五輪の塔ではあるが、下部は土に埋まっており五輪の塔の全体
ははっきりしない。
標柱には、
船津川原の安津橋300m上流の左岸にあります。仏教で宇宙万物を生成する元素とされている地、水、火、風、空の五大を、
方、円、三角、半月、団形(如意珠)で象徴して五輪の塔とされています。
これを石でかたどって、下から順に積み上げたものですが、ここの場合は崖の岩石に刻まれているのが特徴です。
これは平安期から南北朝にかけて供養等に適用されていました。
右側に摩崖碑があります。
と記してある。この五輪の塔は、崖に彫り込んであるのが珍しい。
さて、五輪の塔について
仏教の歴史の中で、寺が創建されるずっと前。その時代には山肌に仏像を刻む伝統がありました。
古い例では、アフガニスタンのバーミヤン渓谷などがあります。
こうした山肌や岩壁に刻まれた仏像は「磨崖仏」と呼ばれており、人間の手が加わってはいるけれども、
自然の中で雨風にさらされ、信仰も根強く残っています。
そして「磨崖仏」は遠くシルクロードを経て、日本にも伝わってきたのです。
石造五輪塔は平安後期から造られている。数ある墓塔形式の中でも最も親しまれている墓塔であり、供養塔といえば五輪塔と言われるほど主流となっている。
五輪塔は方形の地輪、遠景の水輪、三角形の火輪、半円形の風輪、団形の空輪から成る。
一般の塔婆と比較すると、地輪は基礎、水輪は塔身、火輪は笠、風輪は請花、空輪は宝珠に相当する。
基礎は背の低いものほど古く、鎌倉以降では高くなる傾向にある。
塔身は背が低く、やや角ばった球形のものが古く、鎌倉中期以降のものは下半身がすぼまった壷型をしている。
笠も背が低いものほど古い。鎌倉期のものは軒が厚く、軒反りを見せ、軒口を垂直に切る。
時代が新しくなると背が高くなり、軒は薄く、軒反りも上端だけを反らし、軒口は斜めに切る。
請花・宝珠は一石で造り、重心が低いものほど古く、重心が高く側面に垂直面のあるものは新しい。
横の摩崖碑には梵語で阿弥陀如来、勢至菩薩、観世音菩薩が刻まれている。
その下には文字が記されているが風化して判然としない。
この摩崖碑は板碑と同じように供養塔の意味を持つものであろう。
またここから500mほど下流の崖には横穴古墳群がある。
このあたりの崖は、溶結凝灰岩で成り立っており、掘ったり刻んだりしやすかったのであろうか。