2006年 12月 12日
「子どもの心は純真であり、純粋である。」か?
打算や駆け引きが行き交うこの社会では、子どものように純真でいることは確かに稀有なことであり、貴重なことだといえよう。
しかし、子どもの心は一面、事の善悪や分別を知らない無知の心、未熟な心でもある。していいことと悪いことの区別がつかず、自分の感情のおもむくままに行動したりもする。だから子どもの心だけでは良好な人間関係は結べない。(PHP「大人の心」より抜粋)
子どものとらえ方として一面では当たっている。
敢えて言えば、「子ども」といっても
保育園児から小学校6年生までずいぶん幅が広い。
「純真」とは、子どもの代名詞である。
純真とは、「打算や駆け引きのないこと」と理解すると
子ども達はこのようなことをしないで生きていることになる。
さて、日常の子どもの様子から考えるのが私たち教師である
今日は、地域のゲストティーチャーが2年生の教室へ。
押し花を使ったクリスマスカードを一緒に作ろうというのである。
生活科の学習であり、「自然との関わり」「身近な人々との関わり」そして
「活動の楽しさを味わう」のである。
ゲストの先生の話にしっかり聞き入る子ども。
そして、作り始める。
「あ、だめだよ、」
先生の注意が入る。切り取る道具を自分の席に持って行き
自分専用として使い始めた宏君。
好きなものは誰もが欲しいし、使いたい。
そこに指導が入り、ルールができる。
もし、ここで指導がないなら、
争いが起こる。
あとは、弱肉強食の世界になる。
子どもは、大人の指導がないなら野生化する。
まさに、力の世界となる。
野生化した状態を純真とは言わない。
私たちが子どもを純真と言うとき
駆け引きや打算がない姿をもって言うのである。
今日も子ども達は、頭の中で描いた
ものを形にすべく作業に没頭している。
他との比較ではない。
また、他人の目を気にしていない。
ただひたすら、自分が興味あることそして、
価値あると感じられることに全力を尽くしていく。
そして、できあがる。
この満足した顔。
ここに純真の意味する姿がある。
自分にとって興味関心があり、価値がある感じられることに
時間を忘れて取り組んでいく。
ある種の芸術家の姿と重なるように思える。
教育は子どもを一人の社会人として育てる役目を持つ。
同時に豊かな感性を育むことも目指している。
「感性」ということについては定義付けが必要であるかもしれないが。
チマリは、写真がないときのリーリーフ投手である。
今日は、新しいレンズを使ってとってみる。
手ぶれ防止の300mmの望遠だと表情をうまくつかむことができる。