「子どもの心は純真であり、純粋である。」か?

よく「いつまでも子どもの心を失わないでいたい」といったことをいう。
打算や駆け引きが行き交うこの社会では、子どものように純真でいることは確かに稀有なことであり、貴重なことだといえよう。
しかし、子どもの心は一面、事の善悪や分別を知らない無知の心、未熟な心でもある。していいことと悪いことの区別がつかず、自分の感情のおもむくままに行動したりもする。だから子どもの心だけでは良好な人間関係は結べない。(PHP「大人の心」より抜粋)


子どものとらえ方として一面では当たっている。
敢えて言えば、「子ども」といっても
保育園児から小学校6年生までずいぶん幅が広い。
「純真」とは、子どもの代名詞である。
純真とは、「打算や駆け引きのないこと」と理解すると
子ども達はこのようなことをしないで生きていることになる。

さて、日常の子どもの様子から考えるのが私たち教師である
今日は、地域のゲストティーチャーが2年生の教室へ。
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押し花を使ったクリスマスカードを一緒に作ろうというのである。
生活科の学習であり、「自然との関わり」「身近な人々との関わり」そして
「活動の楽しさを味わう」のである。
ゲストの先生の話にしっかり聞き入る子ども。
そして、作り始める。
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「あ、だめだよ、」
先生の注意が入る。切り取る道具を自分の席に持って行き
自分専用として使い始めた宏君。

好きなものは誰もが欲しいし、使いたい。
そこに指導が入り、ルールができる。
もし、ここで指導がないなら、
争いが起こる。
あとは、弱肉強食の世界になる。
子どもは、大人の指導がないなら野生化する。
まさに、力の世界となる。

野生化した状態を純真とは言わない。
私たちが子どもを純真と言うとき
駆け引きや打算がない姿をもって言うのである。

今日も子ども達は、頭の中で描いた
ものを形にすべく作業に没頭している。
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他との比較ではない。
また、他人の目を気にしていない。
ただひたすら、自分が興味あることそして、
価値あると感じられることに全力を尽くしていく。

そして、できあがる。
この満足した顔。
ここに純真の意味する姿がある。
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自分にとって興味関心があり、価値がある感じられることに
時間を忘れて取り組んでいく。
ある種の芸術家の姿と重なるように思える。

教育は子どもを一人の社会人として育てる役目を持つ。
同時に豊かな感性を育むことも目指している。
「感性」ということについては定義付けが必要であるかもしれないが。

チマリは、写真がないときのリーリーフ投手である。
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今日は、新しいレンズを使ってとってみる。
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手ぶれ防止の300mmの望遠だと表情をうまくつかむことができる。
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by shin0710s | 2006-12-12 21:21 | 学校 | Trackback

ダックス4匹の愛犬と猫1匹の動物たち。周囲約7kmの世界で見聞したことを日記風に書いています。


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