2007年 05月 31日
小さな用水路から…
当然あちこちの田んぼに水が張られ、苗代が作られている。
今は、田植機を使っての田植えなので小さな苗代である。
それでも冬から春にかけて流れていなかった水が用水路を流れ始める。
本校の校門横から、道路に潜って用水路が走っている。
用水路は暗渠になり、その先の田んぼの近くでまた
姿を現す。
三方コンクリートの用水路である。
そこには、この用水路をつくった木原寿八郎の顕彰碑がある。
田植えの頃になると、用水路を溢れんばかりに流れる
その姿は、町を貫流する緑川の恩恵を浴する象徴のようにも見える。
さて、学校の横から山麓に沿って川上にさかのぼっていく 。
甲佐高校を横に眺め清正公山をぐるりと横切り更に続いている。
小学生の頃、この清正公山に遊びに行くことがあった。
そしておもしろいなあ、不思議だなあと思ったのがこの用水路である。
小川は、ほとんどが田んぼに沿って流れている。
それが、山の中腹を流れている、なんかおもしろいなあと思ったこと
を記憶している。
清正公山を過ぎると再び暗渠となる。
実は、隧道である。
高さ約1.5mから2m。
幅1.5mから2mの隧道が2カ所有り、双方あわせた延長は、200m
にも及んでいる。
この隧道には、副隧道があり、主幹隧道の砂さばき施設
がも受けられている。
改めてこの用水路の歴史を調べてみて驚くことであった。
小学6年生の時村の子ども達と共にこの隧道探検に出かけたことがある。
小遣いを出し合い、灯油を買い、たいまつを作ってこの隧道に潜った。
なかでも副隧道は、入り口がせまく中が少し広くどこまで続いているかわからない。
松明を灯し匍匐前進。天井にはゲジゲジが鈴なり。
松明の炎によってジジジッとゲジゲジが焼ける匂いが隧道の中に充満する。
それでも、皆で先へ進む。
そのうちに段々苦しくなる。
松明の煙が充満してきたのである。
とうとう我慢できずに
わーっとばかりに松明を投げ捨て、暗がりをはいずり回り狭い入り口から、
主幹の隧道に出て外の光を受けたとき助かったー、生きていると心から安堵したものである。
この探検のことは、その時一緒に行った村のなかまの口外すべからずとの約束となった。
50年近く昔のことである。
この用水路が通称下豊新井手である。
この井手は文政7年(1824年)に完成している。
183年前のことである。(大塩平八郎の乱が1833年である。)
この井手は、竜野村の東部山麓地区の水田を潤すため緑川の鵜の瀬から分水し、
上豊内、下豊内、横田、立神、庄分を過ぎて浅井にいたるまで延長7272m余り
用水路である。当時この地域は、渓水量が非常に少なかったので百姓は毎日毎日水廻りに追われ水争議の絶え間がないほど深刻な用水不足に悩まされていたそうである。
当時の惣庄屋木原寿八郎は、この悲惨な状況をなくすために下豊新井手を作ろうと思い立ったという。
この雨量の少ない年は、収穫皆無となる水田にこの用水路で補い、永世方策の恩恵に浴させたいと言う純粋な救済民福の精神で工事を起こしたという。
この井手には最初は新しく井手を作って分水するならば必ず水が不足するに違いないという理由で皆反対したとも伝えられている。
また、実際工事を始めてからの苦労も並大抵のものではなかった。
それでも測量には、南蛮の規矩を使用したとも。
地面の高低を測るには松明をもった人を要所要所に立たせその明かりの高さ低さを測ったと伝えている。
なお、この工事には起工後三春にして云々と記されていることから、三年余りの歳月を要していることがわかる。
この井手は、本町の脊山の山麓に沿って流れている。
学校の横を流れる小さな用水路であるが、
そこには、先人の大きな願いが込められている。
本校の生徒達は、毎日この用水路を渡って学校に来ている。
命の尊さは、この小さな用水路の歴史からも学ぶことが出来る。
ご機嫌なサクラである?
いや、サクラはこっちである?