2018年 10月 08日 ( 1 )

明徳官軍墓地へ。

少し足を延ばして明徳官軍墓地へ。


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ここには西南戦争で亡くなった官軍兵士が埋葬されている。


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明治10年(1877)の西南戦争では、田原坂の激戦等が有名であるが、
最前線と熊本城の中間に位置する旧北部町内も重要な地点であった。
この地で戦闘が交えられたのは、向坂における2月22日と3月20日の2回がある。
戦闘期間中、町内では254戸の家と204の小屋が焼かれ、戦いにまきこまれて死傷した人も有り、
民間の損害も少なくなかった。主に3月20日の向坂の戦いの戦死者のである。
将兵軍夫123柱の墓石が並ぶ。
墓石は北を正面とし、頭のとがった四角柱で、その総高は士官124cm、下士官87cm、兵卆70cm、軍夫40.5cmを測る。


被葬者出身地
埼玉24、島根13、石川11、熊本7、和歌山7、三重7、神奈川5、長崎5、兵庫5、
京都5、福岡5、山口5、岡山5、愛媛4、長野4、高知3、愛知3、岐阜3、新潟3、
東京3、栃木3、福島3、山形3、大分2、広島1、群馬1、大坂1、千葉1、不明1 (計123)


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さてこのように整然と並んだ墓標であるが、この田原坂は3月20日に官軍の手に落ちている。
その日の戦闘が終わった様子について
川口武定の「従征日記」には次のように記している。

無数の賊軍の遺体が、土塁の周辺に散乱している。官軍の死体も数十ある賊軍の死体の多くは銃創(銃弾による傷)を負っている。


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中には刀創(刀による傷)を受けたものもある。その服装は、陸海軍の軍服のものあり、小紋の股引で袴の裾を上げた者あり、
メリヤス地の袴をつけたものありなどまちまちである。薩摩兵の遺体の折り重なった会われた状態を見ると、これまでの薩摩軍に対する
憤りが和らぐような気さえする。
就中、砲弾に当たった遺体は飛び散って、わずかにちぎれた手足だけになっている。あるいは頭蓋骨は半ば砕け脳漿が流れ、それは、
熟したスイカのようである。また腹部を貫かれたものは、はらわたが露出し、また肋骨あたりが切り裂かれた状態になっている。
遺体が散乱する戦場は、さながら肉屋の店頭のようである。この光景は、筆舌に尽くしがたい。私はこの惨状を始めてみて、地獄を演出した劇場ではないかと思い、とても現世だと信じることが出来ない。わずか100メートルのほどの溝に四体が78~79体も横たわっている。なんと惨憺たる光景だろうか。

激戦の田原坂と知られているが、その様子は実情はこのようなものなのである。

さて、本町の西南戦争の戦いの様子は、正法寺本堂で
10月20(日)に、「西南戦争と甲佐町」の演題で中嶋敬介先生(郷土史家)
の講演が予定されている。
どんな話が出てくるか楽しみである。ただ先生が言われるには公的な記録は少しは残っているが、
民衆の記録を掘り起こすことも必要であるとのこと。

西南戦争とは何だったのか、と問うものになればいいな、と思っている。


by shin0710s | 2018-10-08 21:16 | 遺跡 | Trackback

ビーグル1匹、ダックス5匹の愛犬と猫2匹の動物たち。周囲約7kmの世界で見聞したことを日記風に書いています。


by shin0710s