カテゴリ:遺跡( 116 )

四堂崎の庚申塔

文化財保護委員会で町の遺跡等を調査し、
そのいわれ等を標柱に記し、建立している。

その一つとして、糸田四堂崎の庚申塔に標柱を建てる。



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さて、庚申塔についてであるが、ネットで調べると、


庚申塔とは,中国伝来の道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことである.
中国では,人間の体内にいる三尸の虫が,庚申の日の夜,人が寝ている間に,天帝にその人間の悪事を報告しに行くという言い伝えがある.
それを避けるために,庚申の日の夜は,夜通し眠らずに宴会をする風習を庚申講という.
庚申講が,果たしていつごろから日本で行われていたかは不明だが,少なくとも円仁が入唐するころ(平安初期)には既に行われていたらしい.
元々,貴族の間で社交の場として行われていたものが,戦国時代から徐々に庶民の間にも広まり,
16世紀ごろから庚申塔の造立が進んできたという.
一般的には,庚申講を 3 年間,18 回続けた記念に 庚申塔を造立する 3)4).
なお,俗にいう干支とは,十干(甲,乙,丙・・・)と十二支(子,丑,寅・・・)を組み合わせることで年や日を表す.
庚申とは十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)の組み合わせ のことである.
庚申塔の形や彫られる像や文字などは様々である.
単に庚申の文字だけが彫られている文字塔もあるが,申は干支で猿に例えられることから,
大概の庚申塔には,「見ざる,言わざる,聞かざる」の三猿が彫られることが多い.
早い時期の庚申塔は,阿弥陀如来,地蔵菩薩,大日如来,阿弥陀仏三尊などが彫られているが,
次第に庚申の本尊である青面金剛が多く彫られるようになった.
また江戸時代中期より神道の道の神である猿田彦神の信仰が加わり,猿田彦神も彫られるようになる.
これは「猿」が「申」に通じたことと,猿田彦が塞の神とも同一視された ことが原因であるという
そのため庚申塔には,道標として街道沿いに置かれるものや,村や里の境 界に造立されるものもあった
このように庚申信仰は,道教,仏教,神道に加え,修験道や日本古来の賽の神に対する信仰など多くの信仰が習合され,
まったくもって複雑怪奇な様相を呈している.

と記してあったが、あまりよくわからない。
本町にあるのはここだけであるが、ほかにもあるのかもしれない。



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by shin0710s | 2019-02-24 20:08 | 遺跡 | Trackback

1月の定例会議。

九時半より町の文化財保護委員会議。
1月の例会である。
午前中は、諸議題について検討する。


そして午後からは、文化財保護委員としての活動となる。
本日は、文化財の標柱建立。

まずは、玉堂山玉祥寺へ。日蓮宗の寺院である。
みな立派な高齢者であるが、がんばって力仕事。


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そして出来上がり。


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続いて、今は統合されてしまったが、かっての緑川中学校の場所に
標柱を建てる。


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最後は、山出(やまいで)の薬師堂へ。



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道路に面し、少し高いところに薬師堂がある。
祭日は、四月八日。


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何とか、社会教育課の職員と文化財保護委員で建立することが出来た。
すべてが手作りなのでちょっといびつなところがあるが、
それも手作りということで許してもらえたらと思う。




by shin0710s | 2019-01-28 17:20 | 遺跡 | Trackback

横田の地蔵堂。

横田部落の地蔵堂へ。
用を済ませ村中を通っていると地蔵堂があったので
寄ってみる。



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村の公民館が近くにあり、きちんと整えられ、掃除がされている。
赤い前掛けをしたお地蔵さまが六体。




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ここの六体のお地蔵さまは素朴で優しげである。かわいい、とつい思ってしまう。




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かさこ地蔵の民話に登場する「お地蔵さま」の容貌である。
地蔵菩薩は子供も知っている仏様であるが、子どもたちはお地蔵様に接する機会があるのかな。





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いつもおだやかな表情で路傍に佇むそんなお地蔵さまにまた会いに行こう。



by shin0710s | 2018-12-07 19:56 | 遺跡 | Trackback

船津阿蘇神社へ。

本日は町の文化財保護委員会議。
先日訪れた船津阿蘇神社境内にある仏像堂の
阿弥陀如来や不動明王について報告をする。

そこで会議終了後に保護委員で調査に行く。



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仏像堂の中には、来歴が分かっていない仏さま。


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1m近くの阿弥陀如来。


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木造の仏像に彩色を施してあるが、剥落している。



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不動明王と二童子像は1mを超える大きさである。




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ここの地名は坊分。
お寺にちなむ名前となっている。


本日は、船津阿蘇神社の拝殿の様子も確かめてみる。


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見事な彫刻である。この地域にはこのような彫刻に秀でた人がおられたとか。



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拝殿には、二体の像。




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して古びた額が掲げてある。
文字が読み取れない。




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更に調査が必要である。

by shin0710s | 2018-11-30 19:05 | 遺跡 | Trackback

坊分へ。

今日は、船津の坊分へお取り越。
少し時間があったので
船津阿蘇神社へ。地震で破損していた鳥居や社殿が修復されている。



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船津、世持、麻生原の氏神様である。

石段を登り社殿へ。



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修復が出来ており、懸魚や彫刻が美しい。


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境内の片隅に阿弥陀堂がある。


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ご本尊は何時の頃の阿弥陀仏か不明である。




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大きな不動明王と童子像が二体。


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それに阿弥陀仏がこれまた二体。
乾漆像?であろうか。


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ずいぶんと古い時代の菩薩像である。
ここの地名は「坊分」となっているがお寺があった場所なのか
定かでないが気にかかる。


by shin0710s | 2018-11-19 19:09 | 遺跡 | Trackback

幸野の地蔵さん。

本日は幸野部落のお取り越。
幸野部落の入り口にすっくと伸びた大きな公孫樹が黄金色に染まっている。



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木の下に海陸大明神がある。
祭神として綿津見の神と豊玉姫が祀られている。

更に村に登っていくと真新しい祠があり、お地蔵さまが祀ってある。



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村の口伝によると石井忠左衛門という人が凌雲台に創建したということ。
祭りは1月24日、7月24日。
子どもの疫病退散の霊験あらたかという。



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青空に皇帝ダリアが広がっている。


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by shin0710s | 2018-11-17 20:07 | 遺跡 | Trackback

美里町の風呂橋へ

美里町の風呂橋へ。
熊本地震以来なかなか文化財まで手が回らない。
この風呂橋も多分そうであろう。

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案内板でこの水路眼鏡橋について学ぶ。


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県内では通潤橋(大都町)や雄亀滝橋(美里町)などが知られているが、
江戸期に架けられた水路眼鏡橋は珍しく、現存しているものは数が少なく
貴重な石橋である。

橋の上を水路が走っている。



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江戸後期、萱野村(現大字萱野)の干害対策のため、中山手永第11代惣庄屋・内田太右衛門(1810~1820年在勤)により
文政二(1819)年、瀬戸山方面から権現山を廻り約1500間(約3km)の用水路が開さくされました。
その後、水漏れがひどくなり、明治40(1907)から、貫井手(用水トンネル)の開さくを始め、同42(1909)年7月に完成しました。
貫井手は約160m、風呂橋(水路橋)の長さは10mです。


草が生い茂り、この橋にいたる道も通りにくい。
ちょっとこの状況は、寂しいものである。

by shin0710s | 2018-10-25 20:40 | 遺跡 | Trackback

民具について(4)

民具の手入れ研修も4回目。
旧宮内小学校での実技研修である。


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学校の前には切り立った小高い山が見える。


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民具を整理するための資料作りを続ける。




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子どもに分かるように説明文を考える。
いろいろな資料から引用してより的確にかつ分かりやすくとなるのだが、
これがなかなか難しい。



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さて、私は肥後鍬を調べていく。


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このような形になっている。
江戸時代は鉄がまだ貴重であったので強く激しく使う部分だけ鉄でできている鍬である。
風呂鍬とも呼ばれている。


ところで子どもたちが大好きな昆虫にクワガタがいる。




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なぜクワガタと呼ばれるか?
それは、風呂鍬の鉄の部分であるU字がクワガタの角に似ているからだそうである。

初めて知りました。


by shin0710s | 2018-10-18 20:40 | 遺跡 | Trackback

船津支石墓へ。

船津の山口にある畑の一角に支石墓がある。
南鮮式支石墓で、弥生時代中期のお墓である。

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大型扁平の石を3個ないし数個の支石で支え、その下に埋葬してある。
支石墓と下のようなお墓である。



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                        南島原市原山ドルメン



船津支石墓は、現在はここにあるが、この位置も移されたものである。




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上に乗せる扁平石は割れており、また支石の一部は失わている。




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昭和52年当時は、埋葬者等は不明であるが、麻生原に2基、八ッ割に12基残っていたらしい。
今は、この船津支石墓のみが残っている。



by shin0710s | 2018-10-16 20:23 | 遺跡 | Trackback

標識を建てる。

在るだけでは気づかない私たちである。
「故きを温ねて新しきを知る」の言葉ではないが、
古の人の暮らし息遣い、願い等を知ることが出来、今の私たちの
生活を振り返り、そして今後どうあるべきかを導いてくれるのが
遺跡と呼ばれる文化財である。

さて、本町の文化財は数多くあるが、在るだけではなかなか気づくことがない。
そこでその文化財の価値を少しでも知ってもらおうと標識を建ててきている。

今回は、3本の標識を建てる。
まずは、陣の内館の土塁の標識である。


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雨上がりなので土が柔らかく掘りやすい。
まずはなんとか建てることが出来た。




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次は,旧竜野村役場の標識。




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ケヤキの根が張って掘ることが出来ない。
苦心惨憺しながら頑張るが、ちょっとおぼつかない建て方となった。


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最後は松本新兵衛の墓である。
  

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こちらも柔らかく掘りやすい。


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こうして今日は3本の標識を建てることが出来た。
標識は、すべて文化財保護委員の手作りである。
その由来を調べ、短くまとめる。
そして標木を白く塗り、その上に黒で書いている。

見た目は、専門業者と比べると劣るかもしれないが、
これを温かい目で見てもらえたらうれしいことである。


by shin0710s | 2018-10-15 19:21 | 遺跡 | Trackback

ダックス5匹の愛犬と猫2匹の動物たち。周囲約7kmの世界で見聞したことを日記風に書いています。


by shin0710s