カテゴリ:遺跡( 128 )

目野の薬師堂。

目野は、静かな山間の村である。
清水が湧き出て蛍の群舞する村でもある。

ここに薬師堂がある。


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薬師堂の横には、清水が湧き出ている。


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堂内には薬師如来を中尊とし、日光菩薩を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式である。
また十二神将像が安置されている。


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目野の集落は、古くから阿蘇家の士族として栄え、定着し、30有余戸からなり、
現存する住居跡の地名などで知ることが出来る。現在は戸数15戸であるが、全戸が田上の同一姓である。
地名の由来は、
明治4年の廃藩置県に伴い、市町村制が施行され、竜野村となった。
と同時に現在薬師堂のあるところが「目野寺(もくやじ)」と言われた寺院跡であったため
住民の総意により、目野寺の上の二字をとり
目野(めいの)と呼ばれる小字名となる。
村の住人は、現在薬師堂のある場所を目野てら(もくやじ)さんと呼んでいる。
                (竜野 田上敬一氏の記録より)



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by shin0710s | 2019-08-04 11:08 | 遺跡 | Trackback

木原寿八郎の碑

中学校の駐車場に苔むした碑がある。
木原寿八郎の碑である。
万延2年(1861)建立。



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江戸時代の中横田、下横田区は、夏の日照りが続くと水争いが起きるほど、
水不足で農民は苦しんでいた。
当時の惣領庄屋、木原寿八郎はその苦しみを見て緑川の梁の少し上流から水を引くことを考え、
三カ年の月日を費やして用水路を完成させた。
途中に隧道が2つあり、全長2,700mを超す大規模な用水路である。


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その偉業をたたえての碑がこれである。

by shin0710s | 2019-08-03 20:08 | 遺跡 | Trackback

ようじんってどこ?

中学生のころから面白い地名だな、
と思っていたのが「ようじん」である。

緑川が加藤清正の回収以前は横田、立岩神社そして浅井のほうを
流れていたといわれている。
それで、緑川を渡るときは、「ようじんしてわたれ⁉」
ということから地名になったと教えてもらったことがある。
中学生の頃の話である。

「ようじん」は「養寿院」がなまったものである。
「養寿院」というお寺があったことからその地名になったらしい。

さて、今日は、その「養寿院」に出かける。



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早川厳島神社の神宮寺である。


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不動明王、薬師如来、地蔵菩薩が安置されている。


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薬師如来。



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そして地蔵菩薩。



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お堂の裏手には、板碑がある。また崩れているが五輪の塔であろうか。


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この板碑はいつの時代のものだろうか。
新甲佐町史には、養寿院について
「肥後国史」は、隣接する養寿院の地名の存在から見て四堂崎を中世寺院の境内ではないかと推測しているが、
いずれにせよ、戦国時代の早川村の川べりに、多くの地域住民が共同で法会を執行する場が
形成されていたことは確実である(新甲佐町史p235)

と記している。この板碑は1400年の頃のものかもしれない。


by shin0710s | 2019-07-26 19:56 | 遺跡 | Trackback

世持地区を歩くと…

文化財保護委員で町内の文化財を
巡回している。
とくに熊本地震によって損なわれた文化財の調査が必要なためである。

今回は、乙女地区の世持を訪ねる。


世持妙見社である。
村の人たちが手をかけて大事にしていることがよくわかる。




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祭神は、タカミムスビの神





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『古事記』では高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、『日本書紀』では高皇産霊尊と書かれる。
また葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(たかぎのかみ)という名で登場する。
別名の通り、本来は高木が神格化されたものを指したと考えられている。
「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である。


100mほど離れたところに、地蔵堂がある。




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木造のお地蔵様である。
旧お堂は、明治5年(1872)建立となっている。



午後から時折激しい雨。
ワン公の散歩は中止である。
退屈している。
そして眠たい。



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by shin0710s | 2019-07-18 19:27 | 遺跡 | Trackback

地蔵菩薩。

遺跡巡回の折、思わぬところで地蔵菩薩の出会う。

これは、御船に向かう糸田部落の国道から少し入ったところに
佇んでおられたお地蔵様である。




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道を隔てて小さな室の中におられるのは?
地蔵様ではないかもしれない。




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こちらは下田口の地蔵尊である。




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ただいま夕涼み中。




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晩御飯はまだですか?




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by shin0710s | 2019-07-05 19:30 | 遺跡 | Trackback
「カラムシ」はイラクサ科の多年草で、かつて衣類・紙などに使用するため栽培されていたが、
現在は道端のあちらこちらに自生している。
「ポンポン草」という名称は、丸めた手に大きめの葉っぱをのせ、
上から勢いよく叩くと「ポンッ」と音が鳴る遊びに由来するとか。ウサギが大好きな葉だったように記憶しているが、どうだろう。


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これは、たまたま見つけたポンポン草である。
中心部分が黄色なので珍しいなと思って。



今日は、下田口の観音堂へ。


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観音堂には、十一面観音が祀られている。



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ネットで調べると、

密教系の尊格であるが、雑密の伝来とともに奈良時代から信仰を集め
病気治癒などの現世利益を祈願して十一面観音像が多く祀られた。
観音菩薩の中では聖観音に次いで造像は多く、救済の観点からも千手観音と並んで
観世音菩薩の変化身の中では人気が高かった。

十一面観音はその深い慈悲により衆生から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す菩薩であるとされる。
多くの十一面観音像は頭部正面に阿弥陀如来の化仏(けぶつ)を頂き、
頭上には仏面(究極的理想としての悟りの表情)、
菩薩面(穏やかな佇まいで善良な衆生に楽を施す、慈悲の表情。慈悲面とも)、
瞋怒面(しんぬめん。眉を吊り上げ口を「へ」の字に結び、邪悪な衆生を戒めて仏道へと向かわせる、
憤怒の表情。忿怒面(ふんぬめん)とも)、
狗牙上出面(くげじょうしゅつめん。結んだ唇の間から牙を現し、
行いの浄らかな衆生を励まして仏道を勧める、讃嘆の表情。牙上出面あるいは白牙上出面とも)、
大笑面(だいしょうめん。悪への怒りが極まるあまり、
悪にまみれた衆生の悪行を大口を開けて笑い滅する、笑顔。暴悪大笑面とも)など、
各々に複雑な表情を乗せ、右手を垂下し、左手には蓮華を生けた花瓶を持っている姿であることが多い。



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観音堂の前には六地蔵がある。



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台座には
法界万霊と記してある。
その意味は

法界とは、真理の世界、全宇宙のことで、万霊とはこの世の中の、
一切の生きもののこととされています。
この塔は供養塔としてありますが、造立することが供養の目的ではなく、
造立し万霊をこの塔に宿らせ供養することが目的です。



by shin0710s | 2019-07-01 19:26 | 遺跡 | Trackback

中尾の釈迦如来さん

中尾の本田進さんの屋敷に釈迦如来像がある。
木造瓦葺きの立派な釈迦堂である。



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堂の奥に、右手で天をさし、左手で地面をさした釈迦如来立像が祭ってある。
「台座30cm,総身高140cm)



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堂守の本田さんの話によると
「目野山麓の寺坊屋敷から現在地に明治26年頃移ってきたらしい」とのこと。




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中横田の中尾に釈迦堂があり、中には「お釈迦さん」と呼ばれる高さ145cmの釈迦如来立像が祭らいる。
このように大きな釈迦如来立像は、甲佐町でも珍しいものである。村の人たちの熱い信仰に支えられ、大切に祭られてきた。
元々、この堂は隣接する目野の釈迦堂山にあり、本尊として釈迦が祭られていた。釈迦堂建造とその移転・修理などは数百年前と伝えられている。
かつて、目野の里には多くの寺社があり栄えていたが、約400年前、キリシタン大名で宇土城主の小西行長によって焼き払われたと伝えられている。
現在、目野には薬師堂だけが残っている。


祭日 
2月15日 
各家庭でまんじゅうを作ってお釈迦様に備え、後は子どもたちが自由に食べる習わしがあった。

4月8日
村中でお釈迦様の誕生を祝って御神酒を仏様に供え、
手料理を持ち寄り御神酒を酌み交わし夜遅くまで談笑していた。



なんか退屈。
遊んでくれないかなあ。


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by shin0710s | 2019-06-28 20:36 | 遺跡 | Trackback

宮之尾観音さん

宮之尾橋から坂道を登り右に曲がると一段高いところに
宮之尾観音堂がある。



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木造瓦葺きで南向きに建てられており、
間口3ⅿ 奥行4ⅿの大きさである。




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堂内の本尊は、木造観音菩薩立像(約30㎝)。
地元では、「馬頭観音さん」と呼ばれている。


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馬頭観音かどうかは確かではないようである。




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近くの人の話では、
「私の子どもの頃(昭和13年)お堂の欄間に長さ50㎝ 高さ30㎝余りの板に
白毛馬と栗毛馬が天に向かって躍動している姿を彫った飾り絵馬が奉納してあったのを覚えている。絵馬を刻んだのは、宮澄高平さんでないかと思う。」
と話をされた。

仏堂の絵馬については、どこにあるか不明である。
明治30年代火災が起こり家々はことごとく燃え尽き、観音堂だけが残ったと言い伝えられている。



祭礼日は、1月18日 7月10日
この日の初飯は、各家のもと帰り、仏様に供えるという。
お堂の棟札には、住王舎城修 南無妙法蓮華経 と書いてある。


by shin0710s | 2019-06-24 19:50 | 遺跡 | Trackback

町民俗資料館へ。

本日は、毎月1回の町民俗資料館活動である。
3年目を迎える資料館であるが、予算、人材が足りない。
本町の生活とつながってきた文化財である。
見方によるとガラクタとみなされ焼却処分されてしまう。

旧宮内小学校の教室を活用して資料館としたところである。

今日は、来館者の立場になって展示品の見直しをする。

本町は、昭和三十年代まで養蚕が盛んであった。
それだけに養蚕関係の道具が多い。
本町の人々の生活そのものであり、歴史である。




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農家にとっても養蚕は、貴重な現金収入源であり、
農家ではカイコガについては「お蚕様」と接頭辞を付けて呼称したほどである



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他にも見直さなければならないところが多い。




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月1回では無理かな。
出来ることから、できるところから、無理せずに進めていこう。




ジャスミンの得意のポーズである。



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by shin0710s | 2019-06-10 19:43 | 遺跡 | Trackback

文化財保護委員会へ。

本日は、月一回の文化財保護委員会。
午前中は会議を行い、午後からは、遺跡の現況調査に出かける。


安平の御手洗橋へ。
眼鏡橋である。
橋の上に道路が走っている。


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そして上揚の仁王堂。



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西住戦車長記念碑。


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今日はカメラの調子がよくない。
白っぽくなって使えるものが少ない。

使える改めて撮り直しに行かなければ。


by shin0710s | 2019-05-30 17:54 | 遺跡 | Trackback

ダックス5匹の愛犬と猫2匹の動物たち。周囲約7kmの世界で見聞したことを日記風に書いています。


by shin0710s