カテゴリ:遺跡( 91 )

小さな歴史を楽しむ。

私の村は小さな村である。
1630年代に始まった河川敷のなかの村である。
それでも古い遺跡がある。
時代の流れの中でずいぶん形を変えてきている。
村の墓地があった場所は公園となっている。
桜そして水仙がちょうど満開である。


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そして地蔵尊、水神様、猿田彦大神が一か所に集められている。

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地蔵尊は、元治元年(1864)建立されているが、地蔵尊自体は新しくなっている。
そして水神様。

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こちらはいつの時代か定かではない。
更に猿田彦大神。


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こちらは、
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明治28年(1895)の建立である。

また村の東地区にも地蔵尊がある。


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この地蔵尊は文化十年(1813)と記されている。
この年は、旱魃の厳しいとしてあったらしい。

by shin0710s | 2018-03-25 22:03 | 遺跡 | Trackback

遺跡調査へ。

山笑う季節である。
遺跡調査で目野部落へ出かける。
レンギョウの花が満開となっている。


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山裾に地蔵菩薩があるのいうので確かめに行く。


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元の場所はここではないそうである。


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享保12年(1727)と読み取れる。
せっかく来たので薬師堂まで歩く。


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ご本尊は薬師如来である。左右両脇に日光、月光菩薩の二体。さらに両側に十二神将像が祭ってある。
薬師如来像は室町時代の作で完全な形で大事にされている。

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目野の集落は、古くから阿蘇家の氏族として栄え、定着し、30数戸からなり、現存する住居跡の地名
などで知ることが出来る。

堂の裏手には苔むした五輪の塔(?)も見ることが出来る。


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by shin0710s | 2018-03-24 20:20 | 遺跡 | Trackback

旧宮内小学校へ。

晴天。
文化財保護委員会で旧宮内小学校へ行く。
サクラが学校を覆っている。
閉校になり子供たちの姿はないが、満開の桜の下で
子どもたちの歓声が聞こえてきそうである。


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学校には、桜がよく似合う。


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ここ数日は晴天の日が続く。
明日はここで、村の花見があるらしい。
久しぶりににぎやかな学校になることだろう。


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by shin0710s | 2018-03-23 19:55 | 遺跡 | Trackback

長石山薬王寺へ。

薬王寺は曹洞宗のお寺である。
早川の山際にある小さなお寺で、静謐な空気が流れている。

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山門をくぐると本堂。
白梅が満開で、落ち着いた雰囲気の境内である。



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境内には、宝篋印塔がある。
また苔むした五輪の塔、そして地蔵堂もある。

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この宝篋印塔は文明八年(1476)建立されている。

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板碑の碑文は読むことが出来ないが、明治時代のものである。


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この碑文等についても調べてみたい。


by shin0710s | 2018-03-03 17:46 | 遺跡 | Trackback

史跡の里、早川へ。

塔の木から御船町へ至る443号線の右手の山際が早川である。
ここは史跡の里と呼ばれている。


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戦国時代末期に甲佐を治めていた阿蘇家の一大拠点となっていた。
この地の文化財保護委員さんから教えてもらった
「早川宝篋印塔」を訪ねてみる。


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竹の生い茂る中に宝篋印塔がある。


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永禄8年(1565)の建立らしい。

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碑文の文字ははっきりとしないが、
和山雲心居士
念不滅即仏
と読める。

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この塔の近くには五輪の塔の石であろうか
苔むしたまま置かれている。


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史跡の里である早川は、もっと丁寧に調査する必要がある。

by shin0710s | 2018-03-02 21:18 | 遺跡 | Trackback

文化財保護委員会で。

昨日は、文化財保護委員会が、旧宮内小学校で開催された。
町庁舎の部屋が使えないときは、こちらで開かれる。
晴天で気持ちのいい場所である。
甲佐岳から緑川に沿って流れてくる風が気持ちいい。


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午後からは遺跡の標木を立てる。
まずは、旧宮内中学校。

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そして場所を移動して、甲佐小学校へ。
現在は甲佐小学校であるが、私の中学生時代は、
ここに甲佐中学校があった。


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今は、その面影すらない。
眼を閉じれば当時の中学校校舎が浮かぶ。半世紀以上も昔のことである。


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by shin0710s | 2018-02-24 18:40 | 遺跡 | Trackback

甲佐の民話から

麻生原部落の緑川沿いに小さな祠がある。
金八水神である。

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小さな小さな祠である。


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そして緑川対岸の浅井部落には
猿王権現堂がある。



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この二つの祠にまつわる民話が残されている。
ちょっと長いけど。

 猿王権現堂
むかしむかし、まだ緑川が二つにわかれ、龍野の下と乙女の下を流れていたころのお話です。
乙女村に、金八という力の強い男が住んでいました。
あまり力が強いので、だれもかなうものがいませんでした。
金八は、たくさんの家来をしたがえて、龍野や白旗の方まで出かけて乱暴をしましたので、近くの村人たちはとても困っていました。

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そこで、村人たちはこのあたりをおさめている阿蘇の大宮司に、金八をこらしめてくださいとお願いしました。願いを聞いた大宮司は、
すぐたくさんの軍勢をつかわしました。阿蘇の軍勢が、緑川のほとりまで来てみると、水かさも多く、渡る橋もありません。
そこで、川をおよいで向こう岸に渡ることにしました。
ところがどうでしょう。
川の中ほどまでくると、足を引っ張ったり、きものを引っ張ったりして、川の中に引きずりこまれてしまいます。
実は、川の中には、金八の手下のカッパたちがまちかまえていたのです。阿蘇の軍勢はたくさんおぼれたり、岸まで引き返したりしてしまいました。
またつぎの軍勢を川にいれましたが、やはりおんなじで、なんどくりかえしても、向こう岸までたどりつくことはできませんでした。
大宮司はどうしたらよいかみんなにたずねました。

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すると猿の王が、 『甲佐岳に住む猿たちをつかってください。』といいました。大宮司は、猿にたすけをたのむことにしました。
猿の王は、甲佐岳に住む猿たちをあつめて、
『阿蘇の神様のためにみんながんばってほしい』とたのみ、龍野の砂溜あたりに集めました。
何万という猿が命令が出るのを待ちました。そのうしろには阿蘇の軍勢がならんでいます。
一方、向こう岸には金八の軍勢があつまっています。川の中には、カッパたちが息をこらしてまっています。
どちらからともなく、ほら貝がたからかになりひびきました。
砂溜の方から、猿たちがいっせいに水に飛び込みました。
そしてカッパたちと激しい戦いがはじまりました。
どれくらいたったでしょうか。緑川はカッパと猿の死体でうずまりました。そしてとうとう猿がカッパを追い散らしてしまいました。
このときをまっていた阿蘇の軍勢たちは、先をあらそって水に飛び込み、川を渡って金八の軍勢と戦いました。
そのうち、数の多い阿蘇軍は、金八の軍をおいちらして、とうとう金八をとらえて首を切りました。
こうして、乱暴をするものもいなくなり、平和な村がかえってきました。
 このときのたたかいで、カッパや猿の死体が、万が瀬というところに何万も打ち上げられました。
また猿の王も浅井の浅瀬死体になって打ち上げられました。村人たちは、猿の王のおかげで勝てたことに感謝して、
猿の王のためにお堂をつくり、ねんごろにとむらいました。
これが猿王堂です。
猿王堂のおまつりは、九月十五日ですが、むかしは、九月の十三日ごろになると、甲佐岳から猿がおりてきて、猿王堂のそうじをしたそうです。
いっぽう、首を切られて死んだ金八も、このままではあまりにかわいそうだと、麻生原の人々がこっそり首をとりかえし、
小さな塚を作り水神さんとしてまつりました。これが『金八水神』のおこりです。
麻生原の人々は毎年七月一日『金八さん祭り』をして金八のたましいをなぐさめました。
これからは、麻生原の村からは、水におぼれて死ぬものがいなくなりました。
それは金八の家来だったカッパたちが、村の人たちを守ってくれるからだそうです。

この民話の背景が気にかかる。
先日行った堅志田城が関係しているのかもしれないと思うと
どんどん想像が広がっていく。

by shin0710s | 2018-01-31 19:33 | 遺跡 | Trackback

堅志田城へ。

先日、ジャスミンと一緒に堅志田城に行くつもりが
道に迷いいけなかったので本日再チャレンジ。
晴天でもあるし、気温も高い。
今日もジャスミンの一緒に出掛ける。

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堅志田城については、以下のとおりである。


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堅志田城跡は、肥後国で活躍した阿蘇氏の城跡であり、
熊本県中央部を流れる緑川中流左岸の最高236mを測る「城山」と呼ばれる山尾根筋に所在する。
阿蘇大宮司職を世襲する阿蘇氏は矢部館を本拠にして肥後国阿蘇郡・益城郡一帯を支配していたが、
その勢力圏の西南部に位置する堅志田城は、肥後国の中央部に近く、戦略上の重要な地点であった。
16世紀の前半、阿蘇大宮司職を巡って生じた阿蘇氏の内紛のなか、
阿蘇惟前が大永3年(1523)に堅志田城に拠って、阿蘇惟豊と対峙した。
また、天正10年(1582)より薩摩の島津氏が肥後国に進攻すると、阿蘇領の最前線として、
阿蘇氏・島津氏の攻防の舞台となり、天正13年閏8月、島津勢の一斉攻撃を受けて落城した様子は『上井覚兼日記』に詳しい。
落城後は島津氏の番城となり、その後、廃城となった。発掘調査等の結果、西方から東北方の栫集落へ向かって
円弧状に延びる延長約400mの主軸尾根と、主軸尾根の西部から南方の熊取集落へむかって延びる
延長300mの派生尾根上に、11箇所の郭、15箇所の堀切や畝堀等を有する大規模な城跡であることが判明した。
このように、堅志田城跡は中世肥後国を代表する大規模な城跡の一つであり、
阿蘇氏の内部抗争、島津氏との攻防が繰り広げられた舞台として知られ、中世肥後の政治状況を知る上で重要である。

地震の影響であちこちに被害が出ている。

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自然の地形を利用した山城である。



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城というより砦のようである。お城と言えば石垣を思い浮かべるが、中世のお城は
自然の地形を生かした砦のようなものであろう。



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多くの切岸や郭の崖が崩落してしまい、
立入禁止となっている郭も少なくないのが残念である。




by shin0710s | 2018-01-19 21:55 | 遺跡 | Trackback

甲斐早雲の墓へ。

晴天なので買い物ついでに寄り道。
隣町の甲斐早雲夫婦の墓へ。


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甲斐氏は菊池氏から分かれ、一時、甲斐国に住したことから甲斐と名乗るようになりました。
足利尊氏に従って九州に下ってきた後、日向国の高千穂に土着しました。
宗運の父・親宣(ちかのぶ)は、阿蘇氏の内紛において阿蘇惟豊(これとよ)に従って活躍し、
惟豊を阿蘇大宮司に復位させました。
この活躍で甲斐氏は厚い信頼を得て、父とともに戦った宗運も御船城主となって
阿蘇氏の大黒柱として活躍し、名軍師として知られるようになりました。
阿蘇惟豊を継いだ子の惟将(これまさ)にも重用され、
大友氏や相良氏と結んで島津氏に対抗するなど、阿蘇氏の独立を維持するために努力しました。
宗運の活躍と大友氏との同盟を支えに、阿蘇家は一時肥後で最も有力な大名となりました。
しかし、大友氏の衰退、宗運の死去などで支えを失った阿蘇氏は島津氏の手にかかって滅亡し、
甲斐氏も主家と運命を共にしました。
ちなみに、宗運とは出家後の名で、それ以前は甲斐親直(ちかなお)と名乗っていくまもとました。
(熊本県総合博物館ネットワークポータルサイトより)

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このお墓は、東禅寺の裏手に小さな丘にあり、そこにある幹まわり2.2mの大きな楠の下に、菩薩形をした2基の石仏が並んでいます。これを甲斐山塔とよび、像の高さ60cm、像の左膝に名前がきざんであり、蕉夢(宗運)、妙性と類推でき、甲斐宗運夫妻の供養塔と考えられています。
東禅寺の過去帳によれば、宗運は天正12年(1584年)7月5日、夫人は天正5年(1577年)5月19日に亡くなっています。そばに小さな墓石があり、高さ50cmの自然石で上部に梵字がきざまれ、下部に「天正十二年七月二十三日禅定門」と書かれてあり、これが甲斐宗運の墓と伝えられています。
  (熊本県総合博物館ネットワークポータルサイトより)


by shin0710s | 2017-12-22 19:52 | 遺跡 | Trackback

松ノ本の共同墓地へ。


一昨年から気にかかるお墓がある。
船津の松ノ本共同墓地にある墓石(?)である。
新しく共同墓地にする折、旧墓地にあった古い墓石を移転したそうである。
墓石に書かれている文字が完全に読めない。
「南無阿弥陀仏」は読める。何時のものかは拓本をとらないと
わからない。

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墓地の先には甲佐岳が見える。
この後夕陽に染まることだろう。


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家に帰ると庭石にいるのはジャスミン。
珍しく外に出ている。


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ジャスミン、おいで。


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ぴょんと飛んでくる。
軽やかな動きである。


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by shin0710s | 2017-12-08 19:43 | 遺跡 | Trackback

ビーグル1匹、ダックス5匹の愛犬と猫2匹の動物たち。周囲約7kmの世界で見聞したことを日記風に書いています。


by shin0710s