カテゴリ:遺跡( 114 )

横田の地蔵堂。

横田部落の地蔵堂へ。
用を済ませ村中を通っていると地蔵堂があったので
寄ってみる。



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村の公民館が近くにあり、きちんと整えられ、掃除がされている。
赤い前掛けをしたお地蔵さまが六体。




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ここの六体のお地蔵さまは素朴で優しげである。かわいい、とつい思ってしまう。




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かさこ地蔵の民話に登場する「お地蔵さま」の容貌である。
地蔵菩薩は子供も知っている仏様であるが、子どもたちはお地蔵様に接する機会があるのかな。





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いつもおだやかな表情で路傍に佇むそんなお地蔵さまにまた会いに行こう。



by shin0710s | 2018-12-07 19:56 | 遺跡 | Trackback

船津阿蘇神社へ。

本日は町の文化財保護委員会議。
先日訪れた船津阿蘇神社境内にある仏像堂の
阿弥陀如来や不動明王について報告をする。

そこで会議終了後に保護委員で調査に行く。



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仏像堂の中には、来歴が分かっていない仏さま。


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1m近くの阿弥陀如来。


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木造の仏像に彩色を施してあるが、剥落している。



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不動明王と二童子像は1mを超える大きさである。




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ここの地名は坊分。
お寺にちなむ名前となっている。


本日は、船津阿蘇神社の拝殿の様子も確かめてみる。


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見事な彫刻である。この地域にはこのような彫刻に秀でた人がおられたとか。



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拝殿には、二体の像。




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して古びた額が掲げてある。
文字が読み取れない。




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更に調査が必要である。

by shin0710s | 2018-11-30 19:05 | 遺跡 | Trackback

坊分へ。

今日は、船津の坊分へお取り越。
少し時間があったので
船津阿蘇神社へ。地震で破損していた鳥居や社殿が修復されている。



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船津、世持、麻生原の氏神様である。

石段を登り社殿へ。



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修復が出来ており、懸魚や彫刻が美しい。


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境内の片隅に阿弥陀堂がある。


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ご本尊は何時の頃の阿弥陀仏か不明である。




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大きな不動明王と童子像が二体。


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それに阿弥陀仏がこれまた二体。
乾漆像?であろうか。


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ずいぶんと古い時代の菩薩像である。
ここの地名は「坊分」となっているがお寺があった場所なのか
定かでないが気にかかる。


by shin0710s | 2018-11-19 19:09 | 遺跡 | Trackback

幸野の地蔵さん。

本日は幸野部落のお取り越。
幸野部落の入り口にすっくと伸びた大きな公孫樹が黄金色に染まっている。



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木の下に海陸大明神がある。
祭神として綿津見の神と豊玉姫が祀られている。

更に村に登っていくと真新しい祠があり、お地蔵さまが祀ってある。



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村の口伝によると石井忠左衛門という人が凌雲台に創建したということ。
祭りは1月24日、7月24日。
子どもの疫病退散の霊験あらたかという。



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青空に皇帝ダリアが広がっている。


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by shin0710s | 2018-11-17 20:07 | 遺跡 | Trackback

美里町の風呂橋へ

美里町の風呂橋へ。
熊本地震以来なかなか文化財まで手が回らない。
この風呂橋も多分そうであろう。

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案内板でこの水路眼鏡橋について学ぶ。


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県内では通潤橋(大都町)や雄亀滝橋(美里町)などが知られているが、
江戸期に架けられた水路眼鏡橋は珍しく、現存しているものは数が少なく
貴重な石橋である。

橋の上を水路が走っている。



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江戸後期、萱野村(現大字萱野)の干害対策のため、中山手永第11代惣庄屋・内田太右衛門(1810~1820年在勤)により
文政二(1819)年、瀬戸山方面から権現山を廻り約1500間(約3km)の用水路が開さくされました。
その後、水漏れがひどくなり、明治40(1907)から、貫井手(用水トンネル)の開さくを始め、同42(1909)年7月に完成しました。
貫井手は約160m、風呂橋(水路橋)の長さは10mです。


草が生い茂り、この橋にいたる道も通りにくい。
ちょっとこの状況は、寂しいものである。

by shin0710s | 2018-10-25 20:40 | 遺跡 | Trackback

民具について(4)

民具の手入れ研修も4回目。
旧宮内小学校での実技研修である。


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学校の前には切り立った小高い山が見える。


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民具を整理するための資料作りを続ける。




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子どもに分かるように説明文を考える。
いろいろな資料から引用してより的確にかつ分かりやすくとなるのだが、
これがなかなか難しい。



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さて、私は肥後鍬を調べていく。


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このような形になっている。
江戸時代は鉄がまだ貴重であったので強く激しく使う部分だけ鉄でできている鍬である。
風呂鍬とも呼ばれている。


ところで子どもたちが大好きな昆虫にクワガタがいる。




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なぜクワガタと呼ばれるか?
それは、風呂鍬の鉄の部分であるU字がクワガタの角に似ているからだそうである。

初めて知りました。


by shin0710s | 2018-10-18 20:40 | 遺跡 | Trackback

船津支石墓へ。

船津の山口にある畑の一角に支石墓がある。
南鮮式支石墓で、弥生時代中期のお墓である。

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大型扁平の石を3個ないし数個の支石で支え、その下に埋葬してある。
支石墓と下のようなお墓である。



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                        南島原市原山ドルメン



船津支石墓は、現在はここにあるが、この位置も移されたものである。




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上に乗せる扁平石は割れており、また支石の一部は失わている。




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昭和52年当時は、埋葬者等は不明であるが、麻生原に2基、八ッ割に12基残っていたらしい。
今は、この船津支石墓のみが残っている。



by shin0710s | 2018-10-16 20:23 | 遺跡 | Trackback

標識を建てる。

在るだけでは気づかない私たちである。
「故きを温ねて新しきを知る」の言葉ではないが、
古の人の暮らし息遣い、願い等を知ることが出来、今の私たちの
生活を振り返り、そして今後どうあるべきかを導いてくれるのが
遺跡と呼ばれる文化財である。

さて、本町の文化財は数多くあるが、在るだけではなかなか気づくことがない。
そこでその文化財の価値を少しでも知ってもらおうと標識を建ててきている。

今回は、3本の標識を建てる。
まずは、陣の内館の土塁の標識である。


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雨上がりなので土が柔らかく掘りやすい。
まずはなんとか建てることが出来た。




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次は,旧竜野村役場の標識。




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ケヤキの根が張って掘ることが出来ない。
苦心惨憺しながら頑張るが、ちょっとおぼつかない建て方となった。


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最後は松本新兵衛の墓である。
  

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こちらも柔らかく掘りやすい。


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こうして今日は3本の標識を建てることが出来た。
標識は、すべて文化財保護委員の手作りである。
その由来を調べ、短くまとめる。
そして標木を白く塗り、その上に黒で書いている。

見た目は、専門業者と比べると劣るかもしれないが、
これを温かい目で見てもらえたらうれしいことである。


by shin0710s | 2018-10-15 19:21 | 遺跡 | Trackback

明徳官軍墓地へ。

少し足を延ばして明徳官軍墓地へ。


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ここには西南戦争で亡くなった官軍兵士が埋葬されている。


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明治10年(1877)の西南戦争では、田原坂の激戦等が有名であるが、
最前線と熊本城の中間に位置する旧北部町内も重要な地点であった。
この地で戦闘が交えられたのは、向坂における2月22日と3月20日の2回がある。
戦闘期間中、町内では254戸の家と204の小屋が焼かれ、戦いにまきこまれて死傷した人も有り、
民間の損害も少なくなかった。主に3月20日の向坂の戦いの戦死者のである。
将兵軍夫123柱の墓石が並ぶ。
墓石は北を正面とし、頭のとがった四角柱で、その総高は士官124cm、下士官87cm、兵卆70cm、軍夫40.5cmを測る。


被葬者出身地
埼玉24、島根13、石川11、熊本7、和歌山7、三重7、神奈川5、長崎5、兵庫5、
京都5、福岡5、山口5、岡山5、愛媛4、長野4、高知3、愛知3、岐阜3、新潟3、
東京3、栃木3、福島3、山形3、大分2、広島1、群馬1、大坂1、千葉1、不明1 (計123)


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さてこのように整然と並んだ墓標であるが、この田原坂は3月20日に官軍の手に落ちている。
その日の戦闘が終わった様子について
川口武定の「従征日記」には次のように記している。

無数の賊軍の遺体が、土塁の周辺に散乱している。官軍の死体も数十ある賊軍の死体の多くは銃創(銃弾による傷)を負っている。


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中には刀創(刀による傷)を受けたものもある。その服装は、陸海軍の軍服のものあり、小紋の股引で袴の裾を上げた者あり、
メリヤス地の袴をつけたものありなどまちまちである。薩摩兵の遺体の折り重なった会われた状態を見ると、これまでの薩摩軍に対する
憤りが和らぐような気さえする。
就中、砲弾に当たった遺体は飛び散って、わずかにちぎれた手足だけになっている。あるいは頭蓋骨は半ば砕け脳漿が流れ、それは、
熟したスイカのようである。また腹部を貫かれたものは、はらわたが露出し、また肋骨あたりが切り裂かれた状態になっている。
遺体が散乱する戦場は、さながら肉屋の店頭のようである。この光景は、筆舌に尽くしがたい。私はこの惨状を始めてみて、地獄を演出した劇場ではないかと思い、とても現世だと信じることが出来ない。わずか100メートルのほどの溝に四体が78~79体も横たわっている。なんと惨憺たる光景だろうか。

激戦の田原坂と知られているが、その様子は実情はこのようなものなのである。

さて、本町の西南戦争の戦いの様子は、正法寺本堂で
10月20(日)に、「西南戦争と甲佐町」の演題で中嶋敬介先生(郷土史家)
の講演が予定されている。
どんな話が出てくるか楽しみである。ただ先生が言われるには公的な記録は少しは残っているが、
民衆の記録を掘り起こすことも必要であるとのこと。

西南戦争とは何だったのか、と問うものになればいいな、と思っている。


by shin0710s | 2018-10-08 21:16 | 遺跡 | Trackback

摩崖五輪と梵字の塔


本町の広報に文化財探訪欄がある。
文化財委員で担当しているが、近く私の番が回ってくる。
そこで、気にかかっていた遺跡を確かめに出かけた。

車や人が通る場所ではないので、木々が生い茂り標柱さえ見えなくなっていた。
何はともあれ草刈りから始める。
小一時間で何とか姿が現れた。

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新甲佐町史には、

緑川左岸の安津橋際にあって、15世紀ごろに刻まれたものと考えられている。
壁には阿弥陀如来、勢至菩薩、観世音菩薩が刻み込まれている。
ここは、緑川によってけずられた阿蘇火砕流の崖が直立しており、火砕流は溶結度の低い溶結凝灰岩である。
そのために文字や絵を刻み込みやすかったのであろう。

と記してある。





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五輪の塔ではあるが、下部は土に埋まっており五輪の塔の全体
ははっきりしない。



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標柱には、

船津川原の安津橋300m上流の左岸にあります。仏教で宇宙万物を生成する元素とされている地、水、火、風、空の五大を、
方、円、三角、半月、団形(如意珠)で象徴して五輪の塔とされています。
これを石でかたどって、下から順に積み上げたものですが、ここの場合は崖の岩石に刻まれているのが特徴です。
これは平安期から南北朝にかけて供養等に適用されていました。
右側に摩崖碑があります。

と記してある。この五輪の塔は、崖に彫り込んであるのが珍しい。
さて、五輪の塔について


仏教の歴史の中で、寺が創建されるずっと前。その時代には山肌に仏像を刻む伝統がありました。
古い例では、アフガニスタンのバーミヤン渓谷などがあります。
こうした山肌や岩壁に刻まれた仏像は「磨崖仏」と呼ばれており、人間の手が加わってはいるけれども、
自然の中で雨風にさらされ、信仰も根強く残っています。
そして「磨崖仏」は遠くシルクロードを経て、日本にも伝わってきたのです。

石造五輪塔は平安後期から造られている。数ある墓塔形式の中でも最も親しまれている墓塔であり、供養塔といえば五輪塔と言われるほど主流となっている。
五輪塔は方形の地輪、遠景の水輪、三角形の火輪、半円形の風輪、団形の空輪から成る。
一般の塔婆と比較すると、地輪は基礎、水輪は塔身、火輪は笠、風輪は請花、空輪は宝珠に相当する。
基礎は背の低いものほど古く、鎌倉以降では高くなる傾向にある。
塔身は背が低く、やや角ばった球形のものが古く、鎌倉中期以降のものは下半身がすぼまった壷型をしている。
笠も背が低いものほど古い。鎌倉期のものは軒が厚く、軒反りを見せ、軒口を垂直に切る。
時代が新しくなると背が高くなり、軒は薄く、軒反りも上端だけを反らし、軒口は斜めに切る。
請花・宝珠は一石で造り、重心が低いものほど古く、重心が高く側面に垂直面のあるものは新しい



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横の摩崖碑には梵語で阿弥陀如来、勢至菩薩、観世音菩薩が刻まれている。
その下には文字が記されているが風化して判然としない。
この摩崖碑は板碑と同じように供養塔の意味を持つものであろう。

またここから500mほど下流の崖には横穴古墳群がある。
このあたりの崖は、溶結凝灰岩で成り立っており、掘ったり刻んだりしやすかったのであろうか。



by shin0710s | 2018-10-02 21:13 | 遺跡 | Trackback

ダックス5匹の愛犬と猫2匹の動物たち。周囲約7kmの世界で見聞したことを日記風に書いています。


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