カテゴリ:遺跡( 98 )

浄水寺で恩師を思う。

文化財研修で宇城市へ。時間があったので豊野町の浄水寺跡を訪れる。


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浄水寺は西暦828年に肥後国で国分寺に次ぐ寺格を有する寺院である“定額寺”に定められた古代寺院である。
(定額寺(じょうがくじ)とは、奈良・平安時代に官大寺・国分寺(尼寺を含む)に次ぐ寺格を有した仏教寺院)。

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延暦9年(790)南大門碑、延暦20年(801)燈籠碑、天長3年(826)寺領碑、康平7年(1064)如法経碑からなる。
奈良・平安時代のもので、一箇所にまとまって存在する碑として唯一であり、数少ない古代の碑として、
古代寺院を解明する上で重要な史料である。



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しかしこの寺については残された資料が少なく調査研究しても
その実態は謎に包まれており“幻の寺院”とも呼ばれているらしい。




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これらの石碑群は平成27年9月4日に“天保2年修理記念碑(1831年)”とともに国重要文化財に指定されている。




さて、そんな貴重な文化財である浄水寺跡に最初の訪れたのは、中学2年生の時である。
担任の先生が日曜日にクラス全員をこの遺跡に連れてこられている。
半世紀以上も昔のことである。英語の先生であった。
まだ、文化財等に目を向ける人がほとんどなかった時代の
昭和三十年代に中学生を案内された先生である。
昼食時間は、中学生にリンカーンの伝記を読んで聞かせておられた。
弁当を食べながら聞き入っていたことを思い出す。
また職員室で私一人1時間余り正座させられたこと。その理由はすっかり忘れている。
そして許されて帰る途中の廊下で何度もひっくり返ったことも今は懐かしい思い出である。
私が教師を目指したのは、先生の影響なのかもしれない。
もっとも、英語の苦手な私は、授業時間は、
ずっと下を向いていて指名されないようにしていたことを思い出す。

by shin0710s | 2018-07-20 15:52 | 遺跡 | Trackback

意識の三層構造

朝日新聞の記事に
「上空からの景観と重なる三層構造」山折哲雄さんの文に
興味を覚えた。


…この列島に住み着いた人間たちの意識もまた三層構造で出来上がっているに違いない。
行ってみれば縄文的世界観、弥生的人間観、そして近代的価値観の重層構造である。
縄文真相の無常観、弥生中層の勤勉と日和見感覚(天候観測)、人それぞれではあろうが近代上層の儒教的合理精神
といったように。もうひとつ面白い点として、これら三層の価値観は互いに他を排除したり否定したりすることがなかった。
新しいものが古いものを壊していく進化の道をとらなかった。…

本町の遺跡には縄文、弥生、古墳時代をそれぞれの時代として重層的に残している。


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私の精神構造の中にも重層的な深層意識としてそれぞれのかけらが残っているのかもしれない。

雨が降っているのでついいろいろな思いが出てくるのを楽しんでいる。

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雨読にはならないが、いろいろな思いを引き出して、それを楽しむのも
雨が降ればこそである。


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by shin0710s | 2018-06-06 17:02 | 遺跡 | Trackback

熊本城は今。

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美術館への行き帰り熊本城が見える。
地震で甚大な被害を受けた熊本城は、今復旧工事が進められている。
天守閣には大きなクレーンが並んで動いている。


かっての美しい姿をいつの日か見ることが出来るだろう。


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美しい石垣も崩れてしまっている。


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こちらも元のようになるはず。


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まだ地震の被害が生々しく残っている。


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二の丸公園の楠の姿が美しい。
若葉の躍動感あふれる生命力に元気をもらえそうである。


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by shin0710s | 2018-06-03 18:05 | 遺跡 | Trackback

旧西村資料館へ。

熊本地震で屋根が崩れそうになった西村資料館が古民家再生事業で
活用されることとなった。
そこで、資料館として収集してあった民俗資料等を殆ど宮内の民俗資料館へ移動していたが
最後に残っていたものを運ぶこととなった。


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先日の雨で雑草が生い茂っている。


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家屋の中には大きな甕がある。
宮内の民俗資料館も収蔵庫がないので置く場所がない。



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何とか運ばねばと工夫を凝らし移動することが出来た。
まだ残したいものもあるのだがなんとも難しい。



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さて古民家再生でどのような姿になるのだろうか。


by shin0710s | 2018-05-11 21:58 | 遺跡 | Trackback

有田陶器市へ(2)

有田陶器市へ出かける楽しみは、古い町並みを散策することである。
町のホームページによると

古くからやきものの町として有名な有田町は、1616年に朝鮮人陶工李参平らによって泉山に陶石が発見され、
日本で初めて磁器が焼かれました。
以来、佐賀藩のもとで、磁器生産が本格化し、谷あいに「有田千軒」と呼ばれる町並みが形成され、繁栄を極めました。

山裾の道に沿って歩くと、古い神社やお寺が立ち並んでいる。
禅宗の寺院である法恩寺の山門横に六地蔵が並んでいる。


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さらに進むと、有田内山の泉山六地蔵に出会える。
ドンバイ塀の通路の横に並んでいる。



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六地蔵についてはこの説明がよくわかる。
これも陶器でできているのが有田らしい。



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五区公民館の裏手で六地蔵に出会える。



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お寺には、三界萬霊と書かれた石碑や位牌が祀られています。
これは三つの世界、すべての精霊に対して供養することの大切さを示すものです。
三界とは、無色界(むしきかい)色界(しきかい)欲界(よくかい)の三つをさします。
界の原語には層という意味もあるので、界は階層と考えてもよいと思います。



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六地蔵ではないが、八坂神社に苔むした石仏がある。





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明治の初めに全国に吹き荒れた
廃仏毀釈の姿であろう。「町内には顔をつぶされたり、頭がない仏像が多くある」
と聞いていたが。このほかにも仏頭のない仏像があるらしい。


by shin0710s | 2018-05-06 15:03 | 遺跡 | Trackback

南三箇大平観音へ。

南三箇には堤がある。

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十一面観音石造物を確かめに出かける。
今回は、ゴルフ場の裏から大平観音へ向かう。


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今はゴルフ場の中になっている。



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水神様は自然石である。


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その横にあるのが大平観音である。


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この地域の人々の水の恵みへの姿がここにある。


by shin0710s | 2018-04-25 21:54 | 遺跡 | Trackback

そっつあんへ。

本町は、緑川が町を貫流している。
緑川沿いの村は江戸時代より洪水に悩まされ、苦しめられてきた。
緑川沿いには、水神様が数多く祭ってある。
同時に水不足に悩まされている村も多い。
山のふもとの村である。
本日は、世持へ。
世持から南三箇に流れている錦郷川の源流には水神様がある。

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「世持沢水池」通称「そっつあん」である。

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水神様であるが、不動明王のような後背が気にかかる。

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少し下ったところにも水神様があるらしい。
ゴルフ場の中にあるとのこと。
近いうちに訪ねたい。


by shin0710s | 2018-04-22 20:35 | 遺跡 | Trackback

なまず塚

乙女の五色山(ごしきやま)の麓にこのなまず塚がある。
地震で倒壊していたのを元通り再建してある。


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民話「なまず塚のはなし」に関係する塚で水神さんとして、
また牛馬の神様として祭られている。
なまずの研究で有名な秋篠宮様も、お忍びでこの塚を調べに来られたそうである。

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津志田の美男と山出の娘の悲恋の民話である。
山出の青年に追われた津志田の男は、渕に身を投じ、大きななまず
となった。その後、なまずが祟り家畜が多く死んだ。
村人は、塚を立てて供養した
というのである。


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もう少し聞き取っていきたい。
祭日等も不明。


  なまずを食わない村

なまずという魚をご存知でしょう。黒い大きな頭に長い日本の鬚をそよそよさせながら泳ぐグロテスクともいえる魚です。
食べるとおいしいのですが一切なまずを食わないという村が上益城郡甲佐町にあります。山出(やまいで)という村です。
それにはこんないわれがあります。
 昔、この村にそれはそれは美しい娘がいました。村の若者たちのあこがれの的でしたがなにしろ、
娘の家は村長(むらおさ)で高い身分でしたし、それにこの娘はあまりにもきれいで上品でしたので、
皆諦めて、村の宝のように大事に尊敬していました。
 ところが変な噂が立ち始めました。娘のところに夜な夜な男が通ってくるということです。
若者たちはびっくりしてそーっと娘の家で見張っていました。夜が更けました。
ひたひたと足音が聞こえました。やがて男の姿が現れました。後光をさすように上品な男でした。
カーッとなった若者たちはてんでにこの棒を振り上げて「待てー」とバラバラと男に襲い掛かりました。
逃げる間もあらばこそ、男は滅多打ちに打たれてぐったりとなしました。若者たちは思う存分うっぷんをはらして引き上げました。
 夜が明けました。あの男どうしているだろうと若者たちが行ってみると男はおりませんでした。
しかし真っ赤な血がぽたぽた落ちてずーっと続いています。どこへ逃げたんだろう。若者たちは血の跡をたどっていきました。
 血の跡は五色山(乙女校区の津志田集落と田口集落の真ん中にあって中世時代は、阿蘇氏の家臣、北里氏が在城した。乙女山古城跡をいう)
のふもとの川のふちに消えています。「おやっ」淵をのぞき込んでみると大きな大きな白いなまずが体じゅうけがをして死んでいました。
「わあー」若者たちは恐ろしくなって逃げかえりました。
 それからです。村に災いが起こり始めたのは。馬が次から次に死ぬのです。
その当時、馬は田を耕すにも山へ行くにも一番大事なものでした。その馬がばたばたと死ぬのです。
「これは神様の祟りに違いない。そういえばあの大きな白いなまずを打ち殺した祟りではあるましか。」
と村中の人々が恐れおののきました。
「とにかく、早くなまずの霊にお詫びをしなければ…」
と淵から死骸を引き上げて丁重に葬り石の祠を立てて懇ろに供養し
「山出の村にチンチク竹の生える限り、お祀りいたします。お怒りを鎮めてください。
今後馬が死ぬようなことがありませぬようにお守りください。
そのお礼に今後、私ども山出の村のものは一切なまずを取って食うようなことは致しません。」
と誓いました。
 これで馬の死は止みました。
 以来この村ではなまずを食わなくなりました。
そしてこの石の祠は今でも五色山のふもとにたっています。

by shin0710s | 2018-04-19 20:29 | 遺跡 | Trackback

小さな歴史を楽しむ。

私の村は小さな村である。
1630年代に始まった河川敷のなかの村である。
それでも古い遺跡がある。
時代の流れの中でずいぶん形を変えてきている。
村の墓地があった場所は公園となっている。
桜そして水仙がちょうど満開である。


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そして地蔵尊、水神様、猿田彦大神が一か所に集められている。

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地蔵尊は、元治元年(1864)建立されているが、地蔵尊自体は新しくなっている。
そして水神様。

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こちらはいつの時代か定かではない。
更に猿田彦大神。


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こちらは、
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明治28年(1895)の建立である。

また村の東地区にも地蔵尊がある。


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この地蔵尊は文化十年(1813)と記されている。
この年は、旱魃の厳しいとしてあったらしい。

by shin0710s | 2018-03-25 22:03 | 遺跡 | Trackback

遺跡調査へ。

山笑う季節である。
遺跡調査で目野部落へ出かける。
レンギョウの花が満開となっている。


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山裾に地蔵菩薩があるのいうので確かめに行く。


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元の場所はここではないそうである。


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享保12年(1727)と読み取れる。
せっかく来たので薬師堂まで歩く。


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ご本尊は薬師如来である。左右両脇に日光、月光菩薩の二体。さらに両側に十二神将像が祭ってある。
薬師如来像は室町時代の作で完全な形で大事にされている。

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目野の集落は、古くから阿蘇家の氏族として栄え、定着し、30数戸からなり、現存する住居跡の地名
などで知ることが出来る。

堂の裏手には苔むした五輪の塔(?)も見ることが出来る。


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by shin0710s | 2018-03-24 20:20 | 遺跡 | Trackback

ビーグル1匹、ダックス5匹の愛犬と猫2匹の動物たち。周囲約7kmの世界で見聞したことを日記風に書いています。


by shin0710s