カテゴリ:ことば( 107 )

「折々のことば」から

朝日新聞5/6の「折々のことば」に惹かれる。

そこには、

    檀 那(旦那)
古代インドからやがて西洋に、東は日本まで伝わった言葉の一つ。
「檀那」はサンスクリット語のダーナが源。
それがラテン語のドーヌム(贈り物)になり、さらに英語ならドナーやドネーションとなる。
檀那もドナーも、その人にとって最も大切なものを人に施す。
人によりそれは金銭であり、自身の臓器である。
与えることは民族を超えて、普遍的な行為とみなされてきた
               
 折々のことば  鷲田 清一



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ダーナとは布施のことである。布施は三輪清浄でなければならない。
かって子供たちに語っていた物語を思い出す。


布施は、梵語では「檀那(旦那)(ダーナ、दान、dāna)」といい、
他人に財物などを施したり、相手の利益になるよう教えを説くことなど、
「与えること」を指す。すべての仏教における主要な実践項目のひとつである。
六波羅蜜のひとつでもある。
布施には「財施」「法施」「無畏施」の三種がある。布施をする人を
ダーナパティ(dānapati)といい、施主(せしゅ)、檀越(だんおつ、だんえつ、だんのつ)、檀徒(だんと)などと訳される。
なお、菩提寺にお布施をする家を檀家(だんか)という言葉も、
檀那、檀越から来たものである。




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昔、ある深い森にウサギとサルと山犬とカワウソが住んでいた。
四匹の動物たちはとても賢く、お互い仲良く暮らしていた。
ある日のこと、ウサギは他の三匹に「貧しくて困っている者に布施をしよう」と話した。
翌日みんなは、食べ物を探し回り布施の用意をした。しかし、ウサギだけは用意する事が出来ませんでした。
ウサギは、考えた末に自分の体を施すことにした。
それを知った帝釈天は、ウサギの気持ちを試そうと僧侶の姿になり、施しを求めに現れた。
ウサギは「薪を集めて火を起こしてください。わたしはその火の中に飛び込みますので、
体が焼けたらその肉を食べて、修行に励んでください」と話し、僧侶に火を起こしてもらった。
そして堂々と美しい微笑を浮かべながら、真っ赤な火の中に身を投じ、自らの身を犠牲にしようとした。
僧侶はウサギの決意が固い事を確かめると、この立派な行いが世界のどこにまでも知れわたるように
月の表面にウサギの姿を描き帝釈天の姿にもどって去っていった。
その後、四匹の動物たちは月夜になると森の広場に集まり、
明日からまた施しが出来るように働こうと誓ったのであった。




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ドナーの語源がダーナであると知る。
ドナーの深い意味を改めて学ぶことになった。

by shin0710s | 2019-05-07 18:06 | ことば | Trackback
定家葛の香りが我が家に漂ってくる。
ジャスミンによく似た香りである。




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禅語に
薫風自南来

とある。その意味は、
薫風の清涼さは単なる感覚的清涼さではなく精神的な清涼さとして、
是非、善悪・利害。得失などの相対的な考え、思想に
とらわれないさばさばとした境涯であり、一切の
煩悩の垢の抜けきった無心の境地を表す語である。

となっているのだけど、古稀を過ぎてもそうありたいと思うだけで
なかなかできるものではない。


そうだろう、ジャスミン?



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by shin0710s | 2019-05-06 19:00 | ことば | Trackback

竹の秋

いつもの散歩コースを小雨の中歩く。
一日一万歩を目標に歩いている。
昨日も雨で今日も雨。
迷ったけれど、4月最後の日である。
頑張って歩く。

2.5㎞程の散歩の終点が竹の生えている雑木林である。



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ここから引き返す。
今日はワン公もいないので楽な散歩となっている。

タケノコもすでに見当たらず、破竹の勢いで若竹が伸びている。
地上の竹は、葉が黄ばんでいる。



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それを他の草木秋の様子になぞらえて、竹の秋というらしい。
麦秋は知っていたが、竹秋は知らない季語であった。

晩春の季語である。

ちる笹の 
   むら雨かぶる 竹の秋

             飯田 蛇笏



by shin0710s | 2019-04-30 18:45 | ことば | Trackback

睦まじく?

この扁額が、
ずいぶん前から気にかかっていた。


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正法寺本堂の須弥壇の後ろに
掲げられている額である。


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戦前の扁額である。

何と書いてあるのか。
また和歌の意味は?


明治神宮だけは読めていた。誰でもわかることだろうけど。
さて調べていくと、昭憲皇太后の和歌である。

みがかずば 玉も鏡も なにかせむ 学びの道も
    かくこそありけれ

意味は、磨く事をしないならば、玉といい鏡といっても一体
何になろうか。学問の道もまた同じである。

昭憲皇太后が女子教育の振興のため詠んだ歌である。
昭憲皇太后は、明治天皇の皇后である。
和歌にはかなりの力量を持っておられ、生涯に三万首ほどの御歌を残されている。
この御歌は、明治9年に東京女子師範学校、今のお茶の水女子大学に贈られたもの。
さてネットで調べていくと、この扁額と全く同じものがある。
それがこちらの扁額。


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この扁額は、真言宗智山派 梅松山円泉寺で大事にされているらしい。


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正法寺の扁額は、
先々代住職か、それとももっと前から掲げられていたものははっきりしない。
ひょっとするとあちこちのお寺にあるのかもしれないが。
明治神宮の宮司の書であることは確かだけど、なぜ浄土真宗のお寺に?
と思っている。
和歌の意味は前住職の父や先々代の祖父が日頃言っていたことと重なっている。


by shin0710s | 2019-03-04 16:49 | ことば | Trackback

2月4日。立春。

本日は、3月の温かさ。
立春。



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これからは暖かな春に向かうことを意味する節季名である。



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そして七十二候の第一候である春風解凍(はるかぜこおりをとく)
二十四節季については目にとめることがあったが、七十二候については
ほとんど気に留めることはなかった。


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本年は、この七十二侯に目を向けていきたい。
折角たっぷり時間があるのだから。


さて境内の白梅は三分咲き。
梅の木にいるのは?




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ルランである。
こんなに暖かいと外がいいらしい。


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by shin0710s | 2019-02-04 22:08 | ことば | Trackback

今日は節分。


「福は内、鬼は外」
今日は節分。

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今まで、何となく節分の日を過ごしてきた。
子供の頃は、確かに豆まきをしたことがある。
そして年の数だけ豆を食べていた。
この年になると年の数だけ豆を食べたらおなかを壊す。
教員になって低学年や中学年の担任の時代には豆まきをしていた。
大豆ではなく、皮付きのピーナツを大豆の代わりに使っていた。
そうすれば後で集めて食べることができた。
もちろん鬼は担任である私。
子どもたちからピーナツをずいぶん投げつけられた。
日頃から怖い鬼先生だった仲も。



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そして幼稚園につとめていた頃は、季節の行事は大事にし、
節分は
当然赤鬼、青鬼,黒鬼になり、園児の前に現れ、
ずいぶん子どもたちを泣かせていた。




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園児にとっては、怖くて怖くてたまらない存在であった。
今、私たち大人にとって鬼はどんな存在?
鬼が島はどこにあるのでしょうか?
どんな種類の鬼がいる?
五種類の鬼がいるそうですね。
中でも赤鬼、青鬼、黒鬼がものすごく大きくて何事か在ると大暴れして
手の施しようがない。



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瞋恚は赤色。
燃え盛る火の色で、
カーッと燃え上がる怒りの心を表している。
瞋恚とは、怒りの心で、欲が妨げられた時に起こる



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貪欲は青色。
どこまでも浸していく水の色で
限りない欲の心を表している。
貪欲とは、欲の心で、なければないで欲しい、
あればあったでもっと欲しいと、キリのない心。



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愚痴は黒色
腹黒いといわれるように、
怨みやねたみの醜い愚痴の心を表している。
愚痴とは、ねたみそねみ、恨み、憎しみの心。

仏法を聞いてくると、
今まで知らなかった、欲や怒りや愚痴の心が
知らされてくる。
そして、私たちの心の奥底はどうなっているかというと、


「みな人の 心の底の奥の院
        探してみれば 本尊は鬼」


「奥の院」とは、普段人には見せない所。
私たちの心の奥底を、建物の奥の院にたとえられている。
「奥の院」といえば、お寺でいえば本堂。
安置されているのは本尊。
尊いものが安置されているはず。
ところが仏法を聞いて、
私たちの心の奥底が知らされてみると、
私たちの心の奥底に住んでいるのは、
鬼だった、と。
鬼は外などいって豆まきができる私ではなかった、と教えられる。
鬼は内に巣くっている私である。
内なる鬼に目覚めよ、と教えているのが節分の別の意味かもしれない。

by shin0710s | 2019-02-03 13:03 | ことば | Trackback

老いの功徳

樹木希林さんの言葉から



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ただ、この年になると、がんだけじゃなくていろんな病気にかかりますし、
不自由になります。腰が重くなって、目がかすんで針に糸も通らなくなっていく。
でもね、それでいいの。
こうやって人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。
若くても不自由なことはたくさんあると思います。
それは自分のことだけではなく、他人だったり、ときにはわが子だったりもします。
でも、その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、不自由なまま、おもしろがっていく。それが大事なんじゃないかと思うんです。



老いにも功徳がある。若い時は、あれもしたい、これもしたい、
あれもできるはずだとウロウロしている。
しかし、老いることによっていろいろなことを次から次と断念させられていく。
だからこそ、はじめてこれだけは私にとって断念することができないという
一番根本の願いがはっきりしてくる。
年を重ねることによって
私が本当にやりたいこと、本当の願いがはっきりしてくることが老いの功徳である

by shin0710s | 2019-01-15 19:15 | ことば | Trackback

蜜柑。

時雨の音に耳を傾けながら午後のコーヒータイム?
そんな気取ったものでもないが、
12月の雨は、秋霖がさらに
深く重くなってようなので
少し気分を変えてホットコーヒーを飲む。


昨日頂いたミカンを机の上に乗せ、
黄色と黄緑の混じったミカンを眺める。



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店頭に並ぶにはちょっと厳しいかな、の色であり大きさである。
田舎の家に植えられた蜜柑の木。その木になった小ぶりな蜜柑である。
その素朴な姿が持ち主の心を伝えるような気がする。




君が掌の 一顆の蜜柑 いつ剥かる

作者】加藤楸邨(かとう しゅうそん)
【補足】「掌」「剥かる」の読み方は、それぞれ「て」「むかる」です。
    一顆(いっか)とは、一粒(ひとつぶ)という意味です。


なに、むけないって?
君には無理だよね。



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それにおいしそうじゃない?
君には無理だよね、わかった。
何を上げようかな。

by shin0710s | 2018-12-11 15:28 | ことば | Trackback

廓然無聖

本堂のご本尊が安置してある須弥壇の後ろに一幅の書画ある。
勤行の折、あるいは掃除の折その書画を子どものころから眺めてきた。
子どもの頃はその目が怖くてできるだけ目を合わせないようにしてきた。
達磨さんのようだけど…
父に尋ねることもなく過ごしてきた。
どうして達磨さんの書画がここにあるのかわからないままである。



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書画の讃が何と書いてあるか読めないままになっていた。
今回改めて、この書画に対してみた。

郭然無聖(かくねんむしょう)と記してある。
その意味は、
帝曰く「如何なるか是、真の功徳」と。師曰く「浄智妙円にして、体自ずから空寂なり。
是の如くの功徳、世を以て求めず」と。
帝、又、問う「如何なるか是、聖諦第一義諦」と。師曰く「廓然無聖」と。 
     『正法眼蔵』「行持(下)」巻

武帝が「私は長くお寺を作りお経を写させ僧を育ててきたが、どんな功徳があるのか?」
達磨が「功徳などありません」と答え、
さらに武帝が「それならば仏教の大切な真理とは何か」と聞くと、
達磨が「廓然無聖」と答えたという。
この言葉は、禅宗の初祖菩提達磨大師の言葉で、悟りの境地を一言で表わした語として知られる。
「廓然無聖」とは台風一過の青い空のように晴れやかでさわやかな境地であるそこには汚れた迷いや煩悩はひとかけらも無い、
そればかりか尊い悟りさえない。
そこはあらゆる言葉を絶した絶対的無一物の世界だ。
山川草木・花鳥風月は皆 今もその世界で生き生きといのちを輝かせている。

真宗のお寺に、禅宗の始祖、達磨大師の言葉が掲げてある。
先々代住職か、その前の住職かはわからないが、この「廓然無聖」の言葉に真宗の教えに通じるものを感じたのかもしれない。
少し破れ、シミも出ているが改めてこの「廓然無聖」の意味と達磨大師の書画を見つめている。

by shin0710s | 2018-10-22 14:46 | ことば | Trackback
樹木希林さんの言葉が心に残っている。
「人間は自分の不自由さに仕えて、成熟している」
の言葉である。



今年は、多くの場所で彼岸花を見ることが出来た。


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毎年この季節になると忘れることなくその姿を見せてくれる。
その姿は、田んぼの道端や道路の端。また人の手により、道路に沿って
見栄えがいいように並んでいる。



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今年は、八女福島八幡宮の境内に紅白の彼岸花が見事に咲いていた。




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ところで彼岸花の別名は余り芳しいものではない。
・死人花 【しびとばな】
・地獄花 【じごくばな】
・幽霊花 【ゆうれいばな】
・毒花 【どくばな】
・痺れ花 【しびればな】
・天蓋花 【てんがいばな】
・狐の松明 【きつねのたいまつ】
・狐花 【きつねばな】
・曼殊沙華【まんじゅしゃげ】

なぜこのような名前が付けられたのだろうか。
彼岸花には毒があるのでモグラなどを墓地に近づけさせないように植えられたというものがあるらしい。
このため「墓地」のイメージから死人花や幽霊花などの別名がついたと思われる。 また彼岸花には毒がある。
そのことから毒花、痺れ花という別名がついているようである。


ただ曼殊沙華の別名は、仏教で伝説上の天の花でもある。サンスクリット語 majūṣakaの音写。
純白で,見る者の悪業を払うといわれ,天人が雨のように降らすという。

ところで、彼岸花の毒はアルカロイドという毒で、水にさらして取り除くことが出来る。
毒を取り除いた彼岸花は飢饉や災害時などに使われる代用食物として救荒食(きゅうこうしょく)にもなっている。



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こうしてみると彼岸花の別名は、人間の生活の日々の生活の中から生まれてきたものであることがよくわかる。


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さて樹木希林さんの言葉は、以下の言葉からその意味を知ることが出来る。

樹木希林さん「難の多い人生は、ありがたい」から


石井 私が取材したいと思ったのは、映画『神宮希林』のなかで、夫・内田裕也さんについて「ああいう御しがたい存在は自分を映す鏡になる」
と話していたからなんです。これは不登校にも通じる話だな、と。
樹木 あの話はお釈迦さんがそう言ってたんです。お釈迦さんの弟子でダイバダッタという人がいます。
でも、この人がお釈迦さんの邪魔ばっかりする、というか、お釈迦さんの命さえ狙ったりする。
お釈迦さんもこれにはそうとう悩んだらしいですが、ある日、「ダイバダッタは自分が悟りを得るために難を与えてくれる存在なんだ」と悟るんです。
私は「なんで夫と別れないの」とよく聞かれますが、私にとってはありがたい存在です。
ありがたいというのは漢字で書くと「有難い」、難が有る、と書きます。
人がなぜ生まれたかと言えば、いろんな難を受けながら成熟していくためなんじゃないでしょうか。
今日、みなさんから話を聞きたいと思っていただけたのは、私がたくさんのダイバダッタに出会ってきたからだと思います。
もちろん私自身がダイバダッタだったときもあります。
ダイバダッタに出会う、あるいは自分がそうなってしまう、そういう難の多い人生を卑屈になるのではなく受けとめ方を変える。
自分にとって具体的に不本意なことをしてくる存在を師として先生として受けとめる。
受けとめ方を変えることで、すばらしいものに見えてくるんじゃないでしょうか。
病気になって年を取って。

石井 そう思うきっかけはなにかあったのでしょうか?

樹木 やっぱりがんになったのは大きかった気がします。ただ、この年になると、がんだけじゃなくていろんな病気にかかりますし、不自由になります。
腰が重くなって、目がかすんで針に糸も通らなくなっていく。
でもね、それでいいの。こうやって人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。
若くても不自由なことはたくさんあると思います。
それは自分のことだけではなく、他人だったり、ときにはわが子だったりもします。
でも、その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、不自由なまま、おもしろがっていく。
それが大事なんじゃないかと思うんです。





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田圃のあぜ道に咲く彼岸花も社寺の境内に咲く彼岸花もその姿は美しい。
場所を選ばず、不自由さがあってもその場所で見事に花を咲かせている。
まさに「曼殊沙華」である。


by shin0710s | 2018-09-24 18:45 | ことば | Trackback

ダックス5匹の愛犬と猫2匹の動物たち。周囲約7kmの世界で見聞したことを日記風に書いています。


by shin0710s